ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
20. 東京学芸大学のJAZZ研で音楽理論を叩き込まれる

――1985年、浜崎さんは東京学芸大学に進学します。その秋に加藤さんとFLYING KIDSを結成するわけですが、東京学芸大学でも音楽活動をしているんですよね。  入学してすぐ、4月だったと思いますけど、ポップス系のロッ […]

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ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
19.『幸せであるように』の誕生

――1989年1月7日のライブで初披露された『幸せであるように』は、前日のリハーサル中に生まれた作品であることはファンの間ではよく知られています。  ある日、加藤が作ったサビのメロディとコード進行を元にしたデモテープを聴 […]

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ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
18. 本当の意味でのFLYING KIDSの始まり

――井上陽水さんの『傘がない』のカバーで自分たちの目指している音楽の輪郭に触れられたFLYING KIDS。そのあとにできたのが『ちゅるちゅるベイビー』なんですね。 『ちゅるちゅるベイビー』を作ったのは、メンバーがマイル […]

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ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
17. 初期FLYING KIDSの楽曲作り

――FLYING KIDSの初オリジナル曲は結成直後(1986年)に加藤さんと浜崎さんで作った『夏の恋』です。どんな曲でしたか。  忘れました(苦笑)。多分、高校時代からバンドでオリジナルを作っていた加藤が曲のベースを作 […]

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ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
16. 原宿クロコダイルで動員記録を作る

――『イカ天』で勝ち抜くたびにもらえた賞金の10万円はどう使っていたんですか。  一人1万円ずつもらって、残り3万円はバンド資金にしていました。番組の帰りにみんなで焼肉を食べたこともありましたね。中園さんに5万円借りてい […]

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ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
15. “初代グランドイカ天キング”の舞台裏

――『イカ天』にFLYING KIDSが初めて登場したのは1989年3月4日。日比谷シャンテの生放送のスタジオで、『我思うゆえに我あり』の演奏ビデオが流れるのをみんなで観ていたんですね。  その時のチャンピオンのGENに […]

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ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
14. 『平成名物TV 三宅裕司のいかすバンド天国』出演

――『イカ天』出演の話は、どこから舞い込んだんですか。7人体制で初めてやった10月のサウンドハウスのライブに、『イカ天』の立ち上げから関わり、出演するバンドを見つけ出してお世話をする“バンドストック事務局”の事務局長だっ […]

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ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
13.  7人体制で初めてのライブ

――テープオーディションを受けたのは新宿サウンドハウスと原宿クロコダイルとのことでしたが、何か狙いがあったんですか。  とくにないと思います。当時サウンドハウスに籍を置いていた松原みきさんのバンドで丸山さんがギターを弾い […]

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ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
12. 7人体制のFLYING KIDS始動

 ――FLYING KIDSのオリジナルメンバー7人が揃った1988年2月は、『イカ天』出演の約1年前です。メンバーは揃ったものの4月以降、学生は浜崎さんだけ。  飯野さんは映像製作会社でディレクターをしていて、音楽も任 […]

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ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
11. FLYING KIDSのオリジナルメンバー7人が揃う

――まだ名前が出てきてないベースの伏島和雄さんとはいつ知り合ったんですか。  フセマンは重音の部長で、加藤がギターを弾いてたバックウォーターのメンバーでしたから、かなり早い段階で知り合っていたはずです。加藤の絡みで僕はバ […]

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