26.サラリーマンかミュージシャンか
――肝心の仕事は、どうだったんですか。
新入社員ですから、やってることは基本的には下働きです。コピーをとる、企画書のコピーとってホチキスでまとめる、クライアントに渡した企画書に誤字が見つかったら、正しい文字をいくつも印字したコピーを持ってクライアントを訪ね、一文字ずつ糊付けして修正する。あとは街に出て必要な資料の写真を撮ってきたり、調査したり。社内のミーティングに出たりクライアントとの打ち合わせをする先輩の隣でメモをとったりもしましたね。たまにプランニングに参加することもあって、「浜崎くんもちょっとキャッチコピー考えてよ」と言われたり。いくつか提出したら「なんか、歌の歌詞みたいだな」って言われこともありました。“プランニングの立て方”も、いろいろ教えてもらいました。どういう考え方でプランを立て、それをどうやって形にしていくか、みたいなことですね。それは今でも役に立っていて、僕が何かを考える時のベースになっていると思います。
――仕事も楽しかったんですね。
会社の上司がみんな、本当に自由で個性的でおもしろい人たちだったんですよ。みなさん、学生運動に勤しんでいた団塊の世代の人たちでね。僕の上司はその中では少し若くて、中学生で学生運動に参加していたというすごく尖った、でもとても優しい人でした。だから、月に1度、平日の夜に『イカ天』のイベントがあっても、相談すると「まあいいよ、行ってきて」といろんなことを大目に見てくれたし、すごく応援もしてくれてました。ただ、だんだん夏が近づくに連れて『イカ天』がらみのFLYING KIDSの活動が増え、リハが連日深夜に及んで、目が覚めたら始業時間にはとても間に合わないみたいなことが何度かあり・・。ネクタイもせず開襟シャツで出社した時に、社長からクレームが入ったみたいで、初めて上司に「ちょっと、それまずいんだけど」って言われたのかな。そのあと、社長に呼ばれて「音楽か会社か、どっちかにしろ」と言われたんですよ。
――そこで浜崎さんは迷わず「じゃあ音楽を」と答えたわけですか。
その場では「はい」と答えただけでしたね。サラリーマン生活は想像してたよりもはるかおもしろかったし、バンドも盛り上がっていましたから、自由なこと、新しいことを標榜していた僕としては“両方やる”という方向で進み始めることを考え始めていた時でしたし、まだアマチュアでしたから会社を辞めて給料が止まったら暮らしていく術はありませんでしたからね。その日の帰り、会社からてくてく銀座まで歩いて、ネオンがともり始めた街や人々が活気づいていく様子を眺めながら、「このまま会社員を続けて誰かと家庭を築いて時が流れていくとしても、そんなにいやじゃないなー」と思ったりしました。ただ「会社ではまだ、オレの才能は何も発揮できてないけど、自分が作った音楽は評価され、たくさんの人が喜んでくれている。自分を活かすという意味では音楽の方が可能性はあるだろうな」とも思ったんですよ。それで踏ん切りがついたというか。出社してたのは8月末まででしたけど、休職扱いにして9月分の給料を出してくれたのはきっと、社長の恩情だったんだと思います。その間に事務所が決まって、結果的になんとか食い繋ぐことができた。あの時社長に「どちらかにしろ」と言ってもらえたことはありがたかったし、何もかもが中途半端で本当に申し訳なかったなと思っています。
(華やかな銀座の夕景。写真は数年前のも。)
インタビュー : 木村由理江