22.黒人音楽への傾倒とジェームズ・ブラウンの影響

――黒人音楽に興味を持ち始めたきっかけは?

よく聴いていたビートルズをはじめとするイギリスのミュージシャンたちはみんな、リズム&ブルースやモータウンが好きだったこと、ポール・ウェラーがジャズ的な要素を作品に導入し始めたことが大きかった気がします。高校3年生の時に通い始めたあんでるせん絵画教室の伏見泰治先生が、黒人音楽初心者だった僕に「これを聴いてみたら?」といろんなジャズやリズム&ブルースのレコードを貸してくれたおかげで、ずいぶんいろんな作品に触れることができました。大学に入ってからは加藤にもいろいろ教わったし、2年生になって東京学芸大学のJAZZ研に入ってからは、ロックよりも黒人音楽が中心になっていきましたね。メンバーの丸山さんからもよく、おすすめのファンクのレコードを借してもらいました。

――しっくり来たんですね。

 元々自分が好きだったミュージシャンたちが憧れていた黒人音楽に、やっと辿り着いたというだけですけどね。黒人音楽は、自分の意思とは関係なくアフリカからアメリカに連れてこられた人たちが虐げられ、搾取されていた日々の想いを吐き出すように言葉にするところから始まっている。それはシャウターに憧れていた僕自身が望んでいたことでもあったから、なぜ自分が黒人音楽に惹かれるのか、理由がよくわかりました。とくにジェームズ・ブラウンは、歌うというより想いを叫ぶだけみたいな人だし、ある種、その完成形ですよね。『セックス・マシーン』(1970)なんかもう、メロディがないですから。“想いを叫ぶ”というスタイルが自分にも一番しっくりくるんだよなーと再認識したところから、FLYING KIDSの音楽が出来上がっていった感じはありますね。

――高校時代に友達のバンドで初めてステージに立った時も、キッスのナンバーをその影響を色濃く受けた歌でカバーしたと話していました。歌い始めた最初から“想いを叫ぶ”タイプのヴォーカリストではあったんですよね。

 そうですね。見栄を切ること、歌舞くことへの憧れの方が強くて上手く歌おうともあまり思っていなかったこともあるし、基本的に歌が上手いわけではないんですよ。大学時代に東京ボンバーズとニューブリーフで歌っていた頃も、上手く歌えてないことは自覚してました。大学3年の終わりに(メンバーに加藤、伏島、中園、丸山、飯野がいた)バックウォーターのヴォーカルを急遽頼まれて歌った時も、どんな曲だったか全然憶えてないけど、決して上手くはなかったし、音程もたいしてよくはなかった。7人体制のFLYING KIDSになって、“FLYING KIDSの音楽”を見つけ出そうといろんな曲をカバーしてデモテープを作りはじめてからも、最初はいろいろ言われました。それで「もっと真面目に歌おう」と思った時期もあったんですよ。でも『イカ天』に出る前年の大晦日、フセマンが声をかけてくれたマービン・デンジャフィールドさんの年越しコンサートでジェームズ・ブラウンの曲のコーラスをやって、改めて「JB、やっぱりすごいなー」と思ったんですよね。「こんな歌い方でもいいんだ」と勇気をもらったというか。その時に、メロディに忠実に歌うことにこだわる必要はない、自分がいいと思う歌い方で突き進んでいいんだ、と確信が持てたし、好きだった清志郎さんの歌詞とジェームズ・ブラウンの歌が合体したようなものを作ったら新しい存在になれるかもと閃いて、それがFLYING KIDSの音楽につながっていった。デビューしてからは、バンドとして活動を続けるためとかもっと売れるためとか、その時々の状況でいろんなジャンルにチャレンジしていったりもしましたけど、ルーツにあるのはそういうことだと思います。

(赤ん坊の頃。母と兄と栃木県宇都宮市昭和1丁目にあった生家にて。)


インタビュー : 木村由理江