27.履いていたジャージを観客の女の子たちにひっぱられる

――FLYING KIDSのデビューは1990年4月10日。初代グランドイカ天キングになった1989年4月8日からほぼ1年後です。

 事務所が決まるまでに時間がかかったんですよ。「イカ天」に出た僕らに最初に連絡をくれて、のちに僕らの担当ディレクターになるビクターの大友光悦さんと「イカ天」の番組制作を担当していたアミューズの人たちがあちこちに声をかけて話をまとめようとしてくれたみたいですけど、全然決まらなかった。「7人は多い」と、当時よく言われました。結局、事務所が決まるまでは「イカ天」に出演するバンドのお世話をしていた“バンドストック事務局預かり”になるんです。それでFLYING KIDSは「イカ天」主催のイベントに5月から毎月1回出ていたし、僕は他にも日曜深夜放送の「別冊イカ天」(1990年4月~1991年3月)に毎週のように出演したり、当時恵比寿にあったアミューズで『週刊イカ天新聞』の記事を書いたり。やってることはかなり“プロ”でしたね。

――「イカ天」主催のイベントは毎回大盛況だったそうですね。

 FLYING KIDSが最初に出たのは1989年5月5日の汐留PIT Ⅱの「紅白アマバン博」。お客さんは1000人以上いたんじゃないかなあ。次が6月のMZA 有明で、7月、8月はインクスティック芝浦ファクトリー(以下、芝浦インク)。芝浦インクの時はFLYING KIDSが中心で対バン相手が入れ替わっていくという座組みでした。人間椅子とかグレートリッチーズとかだったと思いますけど、回を重ねるごとにお客さんが増えて、業界の有名な人たちも次々やって来てました。さくらももこさんと「僕、『ちびまる子ちゃん』、好きです」、「嬉しいな」なんて話したりもしましたね。最初の芝浦インクのイベントだったと思うけど、ちょっと“デベソ”になったステージに立ったら、女の子たちがステージに押し寄せてすごい歓声を上げながら僕の履いてたジャージを引っ張ったりしてね(苦笑)。あれにはびっくりしました。

――“伏島さん号泣事件”も、その時ですか。

 芝浦インクはチャック・ブラウンとか僕らが憧れていたミュージシャンがライブをやっていた場所ですからね。そこでライブがやれて、しかもたくさんのお客さんがものすごく盛り上がっているのを目にしてホロッときたんでしょう。楽屋で当時のカノジョと抱き合って泣いてました。あんなに号泣するフセマンを見たのは、後にも先にもあの時だけ。それを見て僕は、「おもしろいなー」とちょっと笑っちゃいました。

――会場が大きくなったり、お客さんが増えていくのを浜崎さんはどんなふうに捉えていたんですか。

 単純に嬉しかったですよ。みんながすごく興奮して盛り上がってくれていたし、僕自身も毎回“燃え尽きる”という意識で歌っていました。

(写真は1989年に開催された「紅白アマバン博」の時のもの。)


インタビュー : 木村由理江