26.サラリーマンかミュージシャンか
――肝心の仕事は、どうだったんですか。 新入社員ですから、やってることは基本的には下働きです。コピーをとる、企画書のコピーとってホチキスでまとめる、クライアントに渡した企画書に誤字が見つかったら、正しい文字をいくつも印 […]
25.魅力的だったサラリーマン生活
――サラリーマン時代はスーツにネクタイ姿ですか。 典型的なサラリーマンという感じで、毎日紺のスーツを着て出社していました。スーツは成人式の時と就職祝いに両親に買ってもらったに2着しか持っていなかったはずだから、その2着 […]
24. 教員採用試験当日に「これは絶対に無理だ」と確信
――“将来は音楽で”という浜崎さんの本心を、ご両親はいつ知ったんですか。 大学4年になったばかりの頃ですね。東京に出てきた母親と上野の喫茶店でランチをしていた時に、「僕は就職せずに音楽家になろうと思います」と伝えました […]
23. 教育実習では生徒から“チェルシー”と呼ばれていました
――美術系の大学を目指したきっかけはなんだったんですか。 小さい時から僕の描いた絵を見ていた母親が言ったんですよ、「お前は絵が上手いから美大に行ったら?」って。高校1年の最初の美術の授業で「美大志望の人はそのための準備 […]
22.黒人音楽への傾倒とジェームズ・ブラウンの影響
――黒人音楽に興味を持ち始めたきっかけは? よく聴いていたビートルズをはじめとするイギリスのミュージシャンたちはみんな、リズム&ブルースやモータウンが好きだったこと、ポール・ウェラーがジャズ的な要素を作品に導入し始めたこ […]
21. “東京ボンバーズとニューブリーフ”のこと
――東京学芸大学のJAZZ研で浜崎さんが結成したのが東京ボンバーズですね。 JAZZ研に入ったらやりたいバンドを自分で組まなきゃいけないというので、豆ちゃんと呼んでいた同級生でドラマーの豆野朋雄くんと、なぜか気があった […]
20. 東京学芸大学のJAZZ研で音楽理論を叩き込まれる
――1985年、浜崎さんは東京学芸大学に進学します。その秋に加藤さんとFLYING KIDSを結成するわけですが、東京学芸大学でも音楽活動をしているんですよね。 入学してすぐ、4月だったと思いますけど、ポップス系のロッ […]
19.『幸せであるように』の誕生
――1989年1月7日のライブで初披露された『幸せであるように』は、前日のリハーサル中に生まれた作品であることはファンの間ではよく知られています。 ある日、加藤が作ったサビのメロディとコード進行を元にしたデモテープを聴 […]
18. 本当の意味でのFLYING KIDSの始まり
――井上陽水さんの『傘がない』のカバーで自分たちの目指している音楽の輪郭に触れられたFLYING KIDS。そのあとにできたのが『ちゅるちゅるベイビー』なんですね。 『ちゅるちゅるベイビー』を作ったのは、メンバーがマイル […]
17. 初期FLYING KIDSの楽曲作り
――FLYING KIDSの初オリジナル曲は結成直後(1986年)に加藤さんと浜崎さんで作った『夏の恋』です。どんな曲でしたか。 忘れました(苦笑)。多分、高校時代からバンドでオリジナルを作っていた加藤が曲のベースを作 […]