21. “東京ボンバーズとニューブリーフ”のこと

――東京学芸大学のJAZZ研で浜崎さんが結成したのが東京ボンバーズですね。

 JAZZ研に入ったらやりたいバンドを自分で組まなきゃいけないというので、豆ちゃんと呼んでいた同級生でドラマーの豆野朋雄くんと、なぜか気があったウッドベースの山口真くんの3人でギタートリオを結成して、ブルースやスタンダードナンバーを演奏してました。

――ギターはいつから弾いていたんですか。

 最初に弾いたのは小学校の高学年の時ですね。兄貴が中学に入った時に母方の祖母に古賀政男モデルのクラシックギターを買ってもらうんですが、すぐに飽きちゃうんですよ。それを僕がもらって、コード譜みたいなのを見ながら独学でビートルズとかを弾いてました。ただネックがめちゃくちゃ太くて弾きづらいし、張ってあったのがナイロン弦でしたから、気合はあまり入らなかったですね。そのあとは、部屋にレッド・ツェッペリンのポスターを貼っていた修くんが買ったエレキギターを借りたり、高3の時にあんでるせん絵画教室で一緒だった女子高生の直井家寿子さんから借りたエレキギターを弾いたりしてましたけど、熱心に練習したわけじゃないからそんなに上手くはなかったですね。というか、めちゃくちゃ下手でした(苦笑)。でも気合だけはあったので、なぜか堂々とソロをとってました。「僕はそのうちプロになりますから」みたいな態度だったから、周りは「なんだこいつは?」と思っていたでしょうね。

――大学生になっても少しもぶれてないんですね、浜崎さんは。

 そう(笑)。で、そこに、今は学校の先生もしている棚田一之さんという、当時からジャズクラブでピアノを弾いていた先輩がやってきて、意気投合しちゃうんですよ。とにかくおもしろくてパワフルで、ふざけてるんだけど理想も持っている棚田さんに、僕はすごく影響を受けまして。その棚田さんが中心になって、東京ボンバーズは“東京ボンバーズとニューブリーフ”というビッグバンドになっていくんです。僕にギタートリオは無理だということでもあったんですけどね(苦笑)。ビッグバンドになってからは、ギターを弾くだけじゃなく歌も歌っていました。オリジナルもやったし、美空ひばりさんの『りんご追分』をファンクっぽくやってみたりもして、ちょっと独特な感じでしたよ。NARGOが入ったり、北原さんが学園祭にゲストで出てくれたこともありましたね。

――“東京ボンバーズとニューブリーフ”。命名したのは浜崎さん?

 はい、すいません、僕です(笑)。ひどいですよね。

――いやいや。センス炸裂ですね。

 スベってるだけなんですよ(苦笑)。

――でもみなさん、“いいねいいね”と盛り上がったのでしょう?

 最初は(ジャズのビッグバンドの)“原信夫とシャープス&フラッツ”の名前をもじって「“シャープ&ペンシル”はどうですか?」と提案したら「いや、どうかな」って棚田さんが首をひねるから、次はザ・ニューブリードをパクって「じゃあ“ニューブリーフ”で」と言ったら「いいね! 最高じゃん!」って(笑)。東京ボンバーズとニューブリーフの活動は、FLYING KIDSの合間に、卒業間際までやってました。結局、僕がFLYING KIDSで『イカ天』に出て、そっちでプロになりそうだということで「じゃあこれで解散」みたいな話になるんです。でも僕が卒業した後も棚田さんが引き継いでしばらくやってくれて、「浜崎、ちょっと来いよ」と言われて2回くらい、歌ったことがあります。

――東京ボンバーズとニューブリーフはどんな活動をしていたんですか。

 表立った活動はほとんどしてないですね。東京学芸大の学園祭や、吉祥寺のMANDA-LA2ができたばかりの頃に1、2回出たのかな。あと先輩が先生をしている養護学校の学園祭のゲストでコンサートをしたり。本当にアマチュアの活動でしたから、それでプロになろうとはまったく考えてなかったし、プロになるならやっぱりFLYING KIDSだろうと思ってました。

(自作の東京ボンバース&ニューブリーフのライブのフライヤーの原稿。2枚目はメンバーの名前が書いてあります。4番はスカパラのNARGO)


インタビュー : 木村由理江