17. 初期FLYING KIDSの楽曲作り

――FLYING KIDSの初オリジナル曲は結成直後(1986年)に加藤さんと浜崎さんで作った『夏の恋』です。どんな曲でしたか。

 忘れました(苦笑)。多分、高校時代からバンドでオリジナルを作っていた加藤が曲のベースを作ってきたんだと思います。僕がそれに、たまたま買ったKORGのリズムボックスをいじって基本ビートを載せ、セッションしながら仕上げていったんじゃないかな。歌詞も二人で作ったのか僕が全部書いたのか・・。憶えているのは夏の歌だったことくらい。なんかふわっとした歌詞で、「こんなんじゃ全然つまらないなー」と思った記憶があります。自分が作ったうちには入らないくらいの出来でした。

――それが生まれて初めての作詞だったわけですよね。

そうですね。前にも話しましたけど、中学の頃からミュージシャンになりたいと密かに思っていたし、高校時代は「将来はミュージシャンになるんだ」と友達の女の子に話していたのに、曲も歌詞も作る気に全然ならなかったんですよ。音楽活動もほとんどしてなかったし。やる気はあったけど、まだ僕は全然覚醒していなかったですね。

――『夏の恋』以降、二人でオリジナルを作ったりは?

 多分作ってないんじゃないかな。記憶に残ってないということは、作っていたとしてもたいした出来じゃなかったんでしょうね。で、FLYING KIDSのリーダーになったフセマンにある時、「ハマちゃん、歌詞書いて」って言われるんですよ。

――それはやっぱり浜崎さんが歌う人だからでしょうか。

 「こいつならおもしろい歌詞が書けるんじゃないか」とピンと来たんだと思います。いつのライブのリハーサルかわからないけれど、僕が手をあげたりしながら歌っているのを初めて見たフセマンは、「こいつ変なやつだな。何者だ!?」と強烈なインパクトを受けたらしい。それでどこかで一目を置いてくれていたのかもしれないし、そうやってプロデュースしてくれたんだと思います。僕は「そんなに言うならやってやろうか」みたいな態度だったと思うけど、「そうか、オレが歌詞を作るのか」という自覚もその時に芽生えたというか。ただ歌詞はどうやって書くものなのか、まったく見えてなかったですね。

 そしたらある日フセマンが、「これ読めば?」と井上陽水さんの歌詞集『ラインダンス』(新潮文庫)を僕に渡してくれるんですよ。井上陽水さんは兄貴が大好きで、アルバム『スニーカーダンサー』(1979)が実家でよく流れていたし、『なぜか上海』(1979年)を聴きながら不思議な歌詞だなーと思ってたので、「どれどれ」と。「なるほど、こういうことか」と見えてくることがいろいろあったし、陽水さんみたいにエッジの立った歌詞はどうやったら書けるのかと、自分なりに考えたりもしましたね。ただ当時のFLYING KIDSが作ろうとしていたオリジナルは、ブラックコンテンポラリーっぽい曲が多かったから、エッジが立った歌詞はハマらないんですよ。どうしてもシティポップ的な歌詞になってしまうことに僕はもやもやしてたし、「なんかありきたりでおもしろくないなー」と思ってました。

――当時のFLYING KIDSは、どんなふうに曲作りをしていたんですか。

 最初は各メンバーが作ってきたデモテープに忠実に演奏して、それに僕が歌詞をつけてました。でもそれだと自由度が低いし、僕自身、何を歌っていいのかわからない。ただメロディや音数に合わせて言葉を埋めていく歌詞にしかならないというか。だから出来上がっても「歌いづらいな、この曲」と思うだけで、全然おもしろくなかった。確か『ラブタクシー』(未発表)というタイトルの曲もあったけど、どんな曲だったか、全然憶えてないですからね。

――どうやってその状況を打開したのでしょう?

もっとうまい曲作りはないかと模索する中で、少しずつセッション的な要素が加わり、それに応じて僕が自由にやれる余地も徐々に増えていき、結果的にメンバーが用意してくれる“(音の)額縁”みたいなものの中で、僕が自由に絵を描くように即興でメロディや歌詞を作っていくスタイルになった。そこからFLYING KIDSのオリジナリティみたいなものがだんだん見え始めた気がします。同じ頃、井上陽水さんの『傘がない』をカバーしてみようと思い立ってフセマンと二人でデモテープを作っていた時に、メロディを破壊して歌詞だけをグルーヴに載せることを試していたら、思いがけず“日本語のファンク”が出来上がるんですよ。その時に「これは僕が目指していることかもしれない」とスイッチが入った感じがありました。

(1990年頃、雑誌に掲載された人脈相関図)


インタビュー : 木村由理江