12. 7人体制のFLYING KIDS始動

 ――FLYING KIDSのオリジナルメンバー7人が揃った1988年2月は、『イカ天』出演の約1年前です。メンバーは揃ったものの4月以降、学生は浜崎さんだけ。

 飯野さんは映像製作会社でディレクターをしていて、音楽も任せられてすごく忙しそうでしたね。加藤はデザイン事務所でグラフィックの仕事をしていて、中園さんと淳ちゃんは設計関係の事務所で働いてました。丸山さんは松原みきさんのバンドを手伝ったり銀座や六本木のライブハウスでギターを弾いたり、すでにプロとして活動していた。どこにも就職しなかったフセマンは、夜はお座敷バンドでベースを弾いて、日中はたまにそのバンドを抱える音楽事務所で電話番のアルバイトをしたりしてました。

――一体いつ集まって音を出していたんですか。

みんなの仕事が終わった夜10時くらいから、車のない丸山さんが住んでいる高円寺にあったサウンドスタジオ アフタービートの“オールナイトパック”という料金プランで、朝までリハーサルをしたりデモテープを作ったりしていました。フセマンの電話番のアルバイトがない日は、フセマンのアパートに僕が行って、二人でデモテープを作ることもありましたね。

――みなさん、プロを目指していたと、ということでいいんですよね。

それなりには。フセマンは強力にそう思っていたでしょうね。デモテープを録音するためのオープンリールやデジタルリバーブの機材を自腹で買ったり、バンドにすごく力を入れてましたから。積極的に「このオーディション、受けてみよう」と提案もしてくれていたし。僕も、東京学芸大学でやっていた東京ボンバーズとニューブリーフはプロになるようなバンドじゃないとわかっていたから、プロになるならFLYING KIDSだろうと思ってました。

――メンバーが揃ってから初ライブまで、かなり時間が空いています。

 ライブは全然やっていませんでしたね。スタジオにはよく入ってたけど練習の域を出なかったし、演奏するのもカバーがほとんど。フセマンの提案でデモテープを録りながら、FLYING KIDSのあり方みたいなものを探って作り上げていこうとしていた時期が結構長かったんですよ。群馬県の草津で合宿レコーディングをして、『ラブタクシー』という未発表のオリジナル曲のデモテープを録ったりしたことがあったけど、それもその一環だった気がする。そのうちにコンテストに出ることが決まり、スタジオで演奏曲を練習したりオリジナル曲を作っていくうちに、だんだんグルーヴができてきて“FLYING KIDSのサウンド”が固まっていったのかな。たくさんライブをやることで方向性やサウンドが固まるグループが多いんでしょうけど、FLYING KIDSはそうじゃなかったんですよ。

――以前、伏島さんは「ライブで地道にお客さんを増やしていくのは大変だけど、コンテストに出て話題になればお客さんも来てくれるし、レコード会社から声もかかるんじゃないかと期待していろんなコンテストにデモテープを送っていた」と話していました。FLYING KIDSが最初に受けたコンテストはヤマハ音楽振興会主催のBAND EXPLOSION’88です。国内予選の1次を通過して、2次で落ちて決勝には行けなかった、と。

 2次予選で『ちゅるちゅるベイビー』を演奏したんですけど、審査員だったSHOGUNのキーボーディストのケーシー・ランキン氏に「ドラムとボーカルがファンクじゃない!」と言われたのをよく憶えてます(笑)。多分同時期くらいにフセマンの地元のFM群馬主催のROCKERS’88にもデモテープを送っていて、そっちは順調に勝ち進んで『ちゅるちゅるベイビー』を演奏して準優勝し、上毛新聞社賞をいただきました。賞品は決勝での演奏をライブレコーディングしたレコード(『ROCKERS’88 FINAL GIG 8.27』)で、FLYING KIDSの音源が初めてレコード化されたと、ちょっと感慨深かった記憶があります。賞をもらうのも初めてだったし、「一体なんなんだ、このバンド! かっこいい!」と審査員がすごく盛り上がってくれたのも嬉しかったですね。なのになぜ優勝できなかったのかな、とチラッと思ったりもしましたけど(笑)。新宿サウンドハウスや原宿クロコダイルのテープオーディションも通ってライブが決まり始めていたので、「FLYING KIDSのサウンドは出来上がりつつあって、それはいろんな人に認められているのかも」と手応えを感じ始めていた時期でしたね。

(ROCKERS’88に出演したFLYING KIDS。)


インタビュー : 木村由理江