10. FLYING KIDS結成

――FLYING KIDSの結成は、浜崎さんが大学1年生の時です。

 1985年の10月頃でしたね。加藤(英彦)が住んでいた高尾のアパートで、「バンドやろうよ」という話になって「じゃあ」って。県立宇都宮東高校の同級生だった加藤とは、高校の頃から「東京に行って一緒にバンドをやろう」と約束していたし、地元で一浪していた間も僕はそのことだけ考えていたようなところがありました。でも1年早く造形大学に入学した加藤は、僕が東京に出てきた時にはすでに、大学の音楽サークル・重音でバックウォーターというバンドのメンバーになっていたし、僕が兄貴と住んでいた吉祥寺と高尾は同じ中央線でも距離があって、お互いのアパートを行き来できるのは月に一度程度。それで話が進むのに半年かかったんですね。結成してからは「早くライブがやりたいね」と話ながら、加藤のアパートでライブに備えた選曲をしたり、ザ・ビートルズの『アクロス・ザ・ユニバース』をカバーなんかをしてました。

――“FLYING KIDS”という名前にしたのは? 

 決めたのは加藤です。「“FLYING KIDS”はどうかな?」と言われた時には、正直、もうちょっと違うのがいいなーと思いましたけど、僕が考えるとどうしてもふざけてしまいがちだし、僕自身はバンドがやれるなら名前なんてなんでもよかったんですよ。それで「いいんじゃない?」って。「どういう意味?」って加藤に訊いたけど、どんな想いでその言葉を選んだか、ちゃんとは答えてくれなかったんじゃないかな。「吉田美奈子さんのバックバンドの名前だよ」って言われた気がするけど、実際には加藤が大好きな山下達郎さん作曲、吉田美奈子さん作詞の『フライング・キッド』という曲のタイトルで、そこからいただいた名前です。

――FLYING KIDSの初ライブは結成2ヶ月後の85年12月。加藤さんが所属していた東京造形大学の音楽サークル・重音が主催した学生ホールライブです。

 「やっとライブができる!」と加藤と盛り上がったんですけど、二人だけでやるのもなあ、と。それで加藤がやっていたバンド・バックウォーターでドラムだった先輩の中園(浩之)さんに入ってもらい、“エノヤン”と呼んでいた、のちにロカビリーバンド・ジャッキー&ザ・セドリックスでデビューするエノッキー(榎本正秀)さんにベースをお願いしました。4、5曲演奏したのかな。『アクロス・ザ・ユニバース』、『バッドマンのテーマ』の他にスタッフやビリー・プレストンの曲をやって・・。加藤と二人でアッシュフォード&シンプソンの『エイント・ナッシング・ライク・ザ・リアルシング』のデュエットもしましたね。

――2回目の1986年7月15日の重音主催の学生ホールライブも同じメンバーで?

いや。バックウォーターのメンバーでもある丸山(史郎)さんがリーダーだったチャカ・カーンのコピーバンド・ポケットキャブでベースを弾いてた服部壮雄さんと、バックウォーターのキーボードだった飯野(竜彦)さんに入ってもらいました。マービン・ゲイの『ワッツ・ゴーイン・オン』を初めてやったのは、このライブでしたね。このライブの音源はどこかにあるはずなんだけど・・。3回目が10月18日の東京造形大学の学園祭ライブで、その時はポケットキャブのコーラス担当だった淳ちゃん(浜谷淳子)にも参加してもらいました。加藤と僕で作った最初のオリジナル曲『夏の恋』を、僕のパーカッションのマシンと加藤のギターだけでやったのもこのライブです。当時は加藤と僕と中園さんが固定メンバーで、加藤がプロデューサー的な動きをしてゲストのメンバーを決めていたんですよ。

(東京で初めて暮らした吉祥寺のナカミチアパートにて。1985年から1990年頃までここに住んでいました。)


インタビュー : 木村由理江