15. “初代グランドイカ天キング”の舞台裏

――『イカ天』にFLYING KIDSが初めて登場したのは1989年3月4日。日比谷シャンテの生放送のスタジオで、『我思うゆえに我あり』の演奏ビデオが流れるのをみんなで観ていたんですね。

 その時のチャンピオンのGENに挑むチャレンジャーを決めるために次から次へとバンドの演奏ビデオが流され、スタジオ審査員と在宅審査員のNGの数に応じて、演奏ビデオがワイプになってフェイドアウトしたりしていく中、FLYING KIDSの『我思うゆえに我あり』だけはフルで流れたのかな。そのあとにGENが生演奏を披露して、最後、FLYING KIDSとGENとどちらが勝者かをスタジオ審査員が決める時に、FLYING KIDSの方が上がった札が1枚、多かったんですよ。

――3代目イカ天キングに決まった直後に「この結果は当然?」と司会の三宅裕司さんに訊かれた浜崎さんが、「そうだと思います」と答える映像がネットに残っています。自分たちの楽曲や演奏でみんなを驚かせて勝ち抜くんだという強い気持ちがあったんですか。

 あったと思います。自分たちのアイディアやバンドの力を、全部注ぎ込めた演奏ビデオでしたからね。イカ天キングになれたことで、「よし、5週勝ち抜こう!」とさらに火がついた感じでした。それですぐにフセマンと中園さんがそれぞれに部屋を借りていたアパートに、僕と、確か加藤の4人で集まって話し合いをしたんですよ。

――何の話し合いですか。

その時点で自分たちが納得できるオリジナルは『我思うゆえに我あり』と『ちゅるちゅるベイビー』と『幸せであるように』の3曲だけでしたから、2週目に『ちゅるちゅるベイビー』をやるか、『幸せであるように』にやるか、ですね。僕は当然『幸せであるように』を先にやるべきだと思っていたけど、フセマンと中園さんが「『幸せであるように』なら確実に勝ち抜ける、でも2週目に『幸せであるように』をやると3週目以降が厳しくなるから『ちゅるちゅるベイビー』が先だ」って一歩も譲らなくて。「でも『ちゅるちゅるベイビー』で負けたらどうするんだ?」って返すと「それはわからない」って。「サザンオールスターズも『勝手にシンドバッド』と『いとしのエリー』を出す前に『思い過ごしも恋のうち』を挟んでる」とか「もしこれがサッカーのPKだったら」とか、そのループが延々12時間くらい続き、最後は僕が眠くなっちゃって「だめだ、疲れた、もうフセマンの言う通りでいい・・」と言って寝た憶えがあります(苦笑)。それで2週目は『ちゅるちゅるベイビー』になったんですよ。

――4週目の『あれの歌』、5週目の『君が昔愛した人』は、どちらも時間のない中で作っていたということですね。

 そうです。『ちゅるちゅるベイビー』で2週目を勝ち抜いたあと、またいつもの高円寺のスタジオ アフタービートに夜中から集まって、4週目以降に備えた曲作りをしていました。「こんな感じの曲はどう?」、「だったらこんな感じは?」って音を出してながらみんなでゼロから作ったのが『あれの歌』です。フセマンと僕以外のメンバーは仕事が忙しい上に、放送日は週末だから集まれるのは平日の夜だけ。『あれの歌』を作ってる最中、疲労困憊した飯野さんがキーボードの下でひっくり返っていたのを憶えてますよ。でもとにかくみんなをアッと言わせるような、これこそがFLYING KIDSだ! と胸を張れる曲を作るんだと気合が入っていたし、ものすごい集中力でした。『あれの歌』も『君が昔愛した人』も、完成までに2回くらいずつしかスタジオに入ってないんじゃないかな。僕自身、曲を作るコツみたいなものがなんとなくわかった時期でもありましたね。

――反響も大きかったと思います。実際、どう感じていたんですか。

あの頃はテレビの影響力がすごかったですからね。3代目イカ天キングになった翌日から、とにかく電話がすごかった。会う人ごとに「出てたね」と言われるし、知らない人にまで声をかけられたり。“一夜にして人生が変わる”というのは、ああいうことを言うんでしょうね。ただ毎週テレビに出なきゃいけないし、そのための曲作りで本当に忙しかったので、グランドイカ天キングになるまでの約1ヶ月間を振り返ると、ただただわーっと駆け抜けたという印象しかない。ある日、住んでいた吉祥寺のボロアパートのドアノブに、知らない人からのプレゼントがぶら下がっていた時にはびっくりしました。あの時はちょっと、怖かったです。

( イカ天出演後、雑誌に掲載されたナンシー関さんの消しゴム版画 )


インタビュー : 木村由理江