13.  7人体制で初めてのライブ

――テープオーディションを受けたのは新宿サウンドハウスと原宿クロコダイルとのことでしたが、何か狙いがあったんですか。

 とくにないと思います。当時サウンドハウスに籍を置いていた松原みきさんのバンドで丸山さんがギターを弾いていて、クロコダイルに出ていたいろんな人のバックでフセマンがベースを弾いたりしていたから、その流れでデモテープを渡したらオーディションに通ったということだったと思います。ライブハウスはいろいろあったのに、割と身近なところで済ませてましたね。

――7人体制での初ライブは10月1日の新宿サウンドハウスでのイベントです。FLYING KIDSのお客さんはあまり集まらなかったと聞いています。

 そうでした(苦笑)。『ちゅるちゅるベイビー』と今は残っていないオリジナル曲の『ジャングル・タイガー・レィディ』、それから井上陽水さんの『傘がない』を含む邦洋のカバーを何曲かやったのかな。その時に今もメンバー内で語り継がれている“3連事件”というのがあって。

――“3連事件”?

 3連のリズムでやるはずだった井上陽水さんの『傘がない』を、中園さんが8ビートで始めちゃうんですよ。フセマンが指を3本立てて「違うよ、3連だよ」とアピールするんだけど、中園さんはそれをピースサインと勘違いしてさらにノリノリになって8ビートで突き進み、そのまま初めてのバージョンで『傘がない』のカバーを披露することになったという(苦笑)。そういえばその頃のライブだったかコンテストに、フセマンと飯野さんと丸山さんが脱退したバンド・パルジファルの絡みでフセマンが顔見知りになっていた、ソニー・ミュージックが主催するSDオーディションの担当の方が来ていたことがありましたね。SDオーディションは当時、一番大きなオーディションでしたから、嬉しかったのを憶えています。結果的に僕らはそこにはハマらなかったわけですけどね。

――コンテストで準優勝し審査員に絶賛され、大手オーディションの関係者がライブに顔を見せる・・。順調にステップアップしていると感じながら翌1989年を迎えた、と考えていいでしょうか。

 いや。むしろバラバラになりそうな気がしていました。飯野さんは映像ディレクターの仕事がますます忙しくなるし、フセマンは頼まれてジャーマイクという人のレゲエバンドでベースを弾くことが決まり、僕もそんなつもりはなかったのに就職が決まっちゃってましたから。このままFLYING KIDSを続けていくのはちょっと難しいかもしれない、という不安の方が大きかったですね。それで、1988年の大晦日、そののちFMでDJもやることになるマービン・デンジャフィールドさんのクロコダイルでの年越しコンサートにフセマンがベースで、僕がコーラスで参加するんですが、コンサート終了後、そのまま群馬のフセマンの実家に行って、元旦から“FLYING KIDSの活動をこれからどうするか”という話を二人でしていました。「なかなかうまくいかないけどとにかくもっと頑張ろう」という結論だったのかな。そのあとに群馬に帰って来ていたROUGE(1985年にメジャーデビュー)の凱旋ライブを観に行きましたけど、自分たちもいずれ凱旋ライブができるような立場になれるといいな、とお互いどこかで思っていたかもしれないですね。

(1989年1月7日、新宿サウンドハウスでのライブのフライヤー。加藤がデザイン。)


インタビュー : 木村由理江