ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
38.FK初の丸山曲『キャンプファイヤー』、ラフで深い『行け行けじゅんちゃん』

――アルバム2曲目の『キャンプファイヤー』はどんな経緯で?  丸山さんが作ってきた曲がもとになっています。丸山さんが他でやってるバンドに書いたオリジナルを聴いて、「いい曲いっぱいあるなー」と思ってましたけど、FLYING […]

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ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
37.意味がないようで実はある『あれの歌』

――アルバムのタイトルの『続いてゆくのかな』はどんな意図で?  提案したのは僕です。ぱっと閃いたんですよ。提案した時は「当然、続くでしょう」という自信がありましたけど、“かな”と斜に構えてる感じがおもしろいんじゃないの? […]

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ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
36.マニアックすぎてアルバムに入らなかった『国民の皆さん』

――『幸せであるように』を求められすぎて、歌うのがいやになったことはないですか。  案外、ないんですよ。「今日は歌わなくてもいいかな」と思う時もありますけど、歌い始めちゃえばそれなりに“格闘”が始まるというか。ルーティー […]

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ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
35.『幸せであるように』の歌詞にはマービン・ゲイと手塚治虫の影響

――すぐに浮んだという〔幸せであるように心で祈ってる〕というサビは、当時浜崎さんが大事にしていた歌詞ノートにすでに書いてあった言葉なんですか。  書いてありました。歌詞はマービン・ゲイの『ワッツ・ゴーイング・オン』の影響 […]

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ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
34.デビューシングル『幸せであるように』は限定10万枚

――デビュー当日のことは憶えていますか。デビューまでが長かったから、ついに! という気持ちになったり、CDがレコード屋さんに並んでいるのを見に行ったりしたのでしょうか。 すでにイベントにもテレビにもCMに出てましたから、 […]

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ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
33.ゴスペルに興味を持ったのは大学時代

――ゴスペルに興味を持ったきっかけは?  大学の同じ美術科にソウルミュージックがものすごく好きな女の子がいたんですよ。彼女はファンだった大沢誉志幸さんのラジオ番組で知ったソウル・チルドレンというメンフィスで結成された男女 […]

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ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
32.初めてのレコーディングからセルフプロデュース

――デビューシングルとファーストアルバムのレコーディングはいつ頃ですか。  1989年の秋くらいから年末にかけてだったと思います。当時は発売の3ヶ月前には音源を完成させるというのが通常のスケジュールでしたから。キーボーデ […]

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ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
31.初ワンマンのパワステはギリギリの体調だった

――番組出演以前は2本しかライブをやっていなかったFLYING KIDSは、初代グランドイカ天キングになった途端、次々とイベントに出ていきます。  秋にはメンバー5人の母校の東京造形大学と飯野竜彦さんの母校の多摩美術大学 […]

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ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
30.「イカ天」とFLYING KIDS

30.「イカ天」とFLYING KIDS ――1年8ヶ月の放映期間に多くのバンドを輩出し、大きなブームを起こした「イカ天」。「イカ天」とは何だったと思いますか。  “バンドブームの総括”だったと思います。「イカ天」の番組 […]

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ハマミチ ~ “浜崎貴司” ができるまで
29.長いものには巻かれておけ

――状況が動き始めたのはいつ頃ですか。  僕は会社にはもう行ってなかったから9月に入っていたと思うんですけど、フセマンと2人で『名曲アルバム』の印税契約のことでアミューズに行ったんですよ。せっかくだから「イカ天」のプロデ […]

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