44.楽曲を作ることだけで過ぎていたデビュー後の日々

――『幸せであるように』で1990年4月4日にデビューしたFLYING KIDSは翌5日、6日に日清パワーステーションで、そして6月10日に単独初ホール公演“陸の王者大行進 梅雨”を渋谷公会堂で、さらに8月25日に“魅惑のハッスルショー”を日比谷野外音楽堂で開催しています。

 今から思うと短期間にライブをやり過ぎですよね。どれもソールドアウトだったはずだから、よくチケットが売れたなーと思う。僕はお客さんがぎゅうぎゅうのライブハウスに慣れていたから、ソロ初ホールの渋公のライブは理路整然とし過ぎてる印象があって、なかなかペースがつかめなかった記憶があります。実力がなかったから、状況が変わると舞い上がったり力んじゃったりするんですよ。野音も、最初の登場の場面から飯野さんのショルダーキーボードの調子が悪くて流れが停滞しちゃったり、全体的にシャバダバなライブだった・・。燃え尽きられないままライブが終わってしまうことに、戸惑ったりもしていました。事務所の社長や当時のスタッフから「あそこがよくなかった」とか「もっとこうしないと」とか色々言われるのも嫌でしたね(苦笑)。

――デビューした実感、売れている実感は得られていたんですか。

 全然です。スタジオに入って楽曲を作ることで日々が過ぎていた印象しかない。たまにライブ、みたいな。夢の中で生きていた感じに近くて、この頃の記憶が一番ないかも。似たような状態が数年続くんですけどね。ただ「思い描いていた“ロックスター”の日常ってこんなんだっけ?」とか「いつ広い部屋に引っ越せるようになるのかなー」みたいなことは思っていた気はします。

――デビューから4ヶ月後、FLYING KIDSも出演したパナソニック「ミニミニコンポ HALF」のCM曲に起用された『我思うゆえに我あり』が2枚目のシングルとしてリリース。カップリングは2曲で、うち1曲は井上陽水さんの『傘がない』でした。

 前も話しましたけど『傘がない』は“FLYING KIDSの音楽”が出来上がっていくきっかけになった曲。(伏島さんと)二人でデモテープを作っていた時に、フセマンから提案されました。なんとなく知ってはいたけど正確に憶えていたわけではなかったから、自由に絵を描くような感覚でフセマンのベースとリズムボックスに合わせて歌ったら、自分たちもびっくりするようなファンクのすごいのができちゃった(笑)。陽水さんの歌詞をファンクにしたらどうなるんだろうという興味も、僕の中にあったのかもしれない。あとで気づきましたけど、『氷の世界』はファンクをモチーフにしてるし、よくよく考えると『傘がない』もソウル・バラッドだったりするんですよね。

今、久々に聴いて、メンバーはみんなアートスクール出身だったから、アンディ・ウォホールがキャンベルのスープ缶を作品化したように、既存のものを再構築していく感覚=サンプリングする感覚だったんじゃないかと思いましたね。ファンクだけどヒップホップ的な解釈でカバーしていたというか。この曲を聴くと、フュージョンに流れがちなところをロックにするのが僕の役目だというのも、よくわかりますね。

――陽水さんサイドから、何か反応はあったんですか。

 とくになかったと思います。90年代に発表された陽水さんの楽曲のカバーを集めたアルバムに収録されたはずだから、ご本人には届いてたんだと思う。勝手に変えちゃってる言葉もあるんですけどね(苦笑)。

(画像はミック・イタヤさんが、傘がないが収録された「我想う故に我あり」のシングルのデザインしてくれた時のラフスケッチ。大好きなデザインのひとつ。)


インタビュー : 木村由理江