34.デビューシングル『幸せであるように』は限定10万枚

――デビュー当日のことは憶えていますか。デビューまでが長かったから、ついに! という気持ちになったり、CDがレコード屋さんに並んでいるのを見に行ったりしたのでしょうか。

すでにイベントにもテレビにもCMに出てましたから、メジャーデビューが特別なこととは思ってなくて・・。流れのひとつとして捉えていた気がします。スポーツ新聞で新人としては破格の扱いで紹介されたりして、「わー、すげえな」と喜んだ記憶はありますけど、レコード屋さんには行かなかったんじゃないかな。CDの発売当日と翌日辺りは、次から次へと全国のラジオの生放送に電話出演していくというプロモーションがありましたから、多分デビュー当日もレコード会社の会議室みたいなところに缶詰になって、デビューのこととかシングルのこととかいろんな人に訊かれていたと思います。

――デビューシングルの『幸せであるように』は、限定10万枚でした。

 どういう経緯かわからないけど、事務所の社長とレコード会社のビクターが話し合ってそう決めたんですよね。デビュー曲が売れ過ぎると背負うものも大きくなって、結局一発屋で終わってしまう可能性があるから、そうならないようにという気遣いだったんでしょう。10万枚は即日完売で、オリコン初登場10位。みんなで喜んだ記憶があります。当時の事務所をのちに僕は離れるわけですが、久しぶりに当時の事務所の社長に再会した時に「FLYING KIDSに関しては悔いがふたつある。ひとつは『幸せであるように』を限定シングルにしたことだ」と言われました。「あれはあれでよかったんじゃないですか」と言いましたけど、どっちがよかったか、本当のところはわからないですね。ただファーストアルバムがすごく売れたのは、そのおかげかもしれないと思ったりはします。

――『幸せであるように』が生まれた経緯はすでに19回目の「『幸せであるように』の誕生」で触れていますが、もう少し話を聞かせてください。加藤さんが作ったサビのメロディとコード進行をもとに、他のメンバーだけでセッションしたデモテープを浜崎さんが聴いたところから、曲作りが本格的に始まったんでしたよね。

 デモテープを聴いて素直に「すごくいい曲だね」と思ったんですよ。ソウル・ミュージックの名曲でよく使われる王道のコード進行なんですが、J-POPではまだほとんど使われていなかったから斬新だったし、日本語の歌詞を載せたら今までにない曲ができそうだとピンときました。サビに合いそうなフレーズもすぐに浮かびましたしね。それで、サウンドハウスのライブの前日(1989年1月6日)のリハーサル中に何度もメンバーとセッションを重ねてサビ以外のメロディを作り、それに合わせて当時大事にしていた歌詞ノートに書き連ねていた言葉を即興的に載せ・・。まだ完成と言える状態ではないのに、と渋るメンバーを僕が説得し、翌日のサウンドハウスのライブで、ある種即興的に初披露したんですが、ものすごく手応えがありました。その時のライブの音源をもとに、最終的に完成させた時の達成感もすごかったし。「イカ天」でも「こんな曲を作るやつらが出てくる番組なのか」というインパクトを観ていた人たち与えられたんじゃないですか。「イカ天」ブームにも、貢献したと思います。

(写真は1990年1月14日の、新宿にあった日清パワーステーションでのライブの時のもの)


インタビュー : 木村由理江