4.歌う浜崎少年
――子どもの頃から好きな歌、気に入った歌はよく口ずさんでいたんですか。
歌ってましたね。僕だけじゃなく家族がみんな、歌ってました。親戚が集まる正月は、みんなの手拍子に合わせて酔っ払った父親やおじさんが歌ったりもしてたし。
――歌が好きな家族だったんですね。
その頃僕が一番歌っていたのはエコーが効いたお風呂です。兄弟3人でお風呂に入ると3人一緒に歌ってた。でも隣に引っ越してきた同い年の女の子が、「浜崎くんってお風呂で毎日歌ってるんだよ」ってみんなにバラしやがって(苦笑)。それで急に恥ずかしくなって、「歌うのはやめよう」と思ったりしてね。我慢できずに小さな声で歌ってましたけど。それが小学校3年生くらいの時かな。言われなかったら、延々歌い続けてたのに(笑)。
――学校でクラスメートの前で歌ったりは?
それはなかったです。ただ土曜日の午後に合唱部の練習に出ていた時期がありましたね。希望して参加する人がほとんどなんだけど、なぜか僕だけ「参加してください」ってスカウトされて。でもそれは別に歌が上手いからとかじゃなくて、音楽の時間に僕だけ、大きな声で歌っていたからだと思う。ちょうど“人前で歌うなんて恥ずかしい”という気持ちが芽生える年頃だから、みんな、ちっちゃい声でしか歌わないんですよ。でも僕は“恥ずかしいと感じることが恥ずかしいんだ”と思っていた。それが、なんていうか、自分の“ロック的な態度”の始まりだったと思います。でも合唱コンクールに出た時に「これはなんかロック的じゃない!」と感じるんですよ。それで合唱部は辞めちゃいました(苦笑)。
――“ロック的かどうか”が、すでにその時点で価値基準になっていたとは驚きです。そこからまた自宅のお風呂でだけ歌う少年になるわけですね。
そうでしたね。でもやがて思春期の到来とともにだんだん口数は少なくなり、態度は悪くなり、お風呂で歌うことも減り・・。
――そういえば高校時代、昼休みの教室で田原俊彦を歌っていたと以前、話していましたよね。
あれはみんなにウケるから余興的に歌ってただけですね。ただトシちゃんの“意味不明なポップさ”みたいなものは好きでした。『ハッとして!Good』(1980年)とか『NINJIN娘』(1982年)とか、意味がよくわからないじゃないですか。郷ひろみさんをすごく好きになったのも、その頃から。『林檎殺人事件』(1978年)とか『How many いい顔』(1980)とか『お嫁サンバ』(1981年)とか、なんのこっちゃ? って感じでしょ。そういう破壊的なところにすごく興味があったんですね。
――なるほど。
話してるうちにだんだん思い出してきた!(笑)。中学から高校に上がるくらいに、家の増築で2階に自分の部屋ができるんですよ。そこでエルビス・コステロとかU2とかビートルズとかローリングストーンズとかレッド・ツェッペリンとかザ・フーとか、そういうブリティッシュ・ロックのレコードを次から次へとかけながら、毎日大声で歌ってました。
――ご近所の方たちにも「浜崎さんちの貴司くんはよく歌ってるね~」って言われていたんですかね。
建売団地みたいなところで、一軒一軒の距離が近かったから全部聞こえてはいたでしょうね。「よく歌ってるね」と言われたことはあるけど、苦情を言われたことはなかったですよ。まだ“昭和”でしたから、近所の人もみんな、大らかだったんだと思う。まあ何か言われても受け流していたと思うけど。大学受験に失敗して母方の祖母が出してくれたお金で地元の予備校に通っていた時も、本当はちゃんと毎日通わなきゃいけないのに、両親とも仕事で家にいないのをいいことに、途中からだんだん行かなくなっちゃうんですよ。それで毎日午前中から、自分の部屋で大きな音でレコードを聴きながら歌ってました(笑)。お昼になって同居していた父方の祖母が「タカちゃん、ご飯どうする?」と声をかけてくれると、「僕はお弁当を食べます」と言って、僕のために母親が用意してくれた弁当を祖母と一緒に食べて、午後にはまたレコードを聴きながら歌って、あとは犬の散歩に3回くらい行って近くの森をうろうろして・・。夕方、父親と母親が帰ってくる頃には、ちゃんと予備校に行って帰ってきた体(てい)で、台所の流しに空になったお弁当箱を出してました。僕が予備校をサボってるのを、祖母は両親にずっと黙っててくれてましたね。あの頃は毎日のように窓全開で、大きな音でレコード聴いたり歌ったり楽器を弾いたりしてたんですよねー。すっかり忘れてたけど、オレ、本当にすげえ歌ってたから歌手になれたんだな、と今、気がつきました(笑)。
インタビュー : 木村由理江