6.音楽に救われる

――栃木県立宇都宮東高校に進学して、世界が広がり閉塞感が薄らぐようなことはなかったのでしょうか。

 男子校だったのにはびっくりでしたけど、非常に自由でカジュアルな空気感の高校だったのはとてもよかったです。全校集会で生徒たちが集団で先生にブーイングをしても、学校サイドが上から抑えつけることはなかったし、体育祭のリレーの最後にクラッカーを鳴らしながら走ったり、水泳大会にブラジャーの絵をマジックで描いて出場しても、ギャグとして許容してくれる。“楽しくいこうぜ”という雰囲気が溢れていて、生徒たちもみんなセンスがいい。そこでなんとなく救われた感じはありました。ただ盛り上がっていたのは最初のうちだけで、急にまた心を閉じ始める時期がきて・・。

――何がきっかけだったんですか。

 盛り上がっていた間は、高校の仲間でめちゃくちゃ遊んでたんですよ。毎日みんなで宇都宮の中心にあるオリオン通りに行って喫茶店にたむろしたり、女の子をナンパしたり。

――ナンパ!

 うまくいかないことの方が断然多かったですけどね(苦笑)。そんなことをずーっとやっていたら、ある時突然、“何やってるんだ、俺は?”みたいモードに入ってしまったんですね。そこから家でも学校でも誰とも口をきかなくなり、しばらく一人で過ごすようになるんですよ。それが高校2年くらいだったのかな。

――どうやって抜け出したんですか。

ある日、中学の時の親友だった釜井亮輔くんが久しぶりに現れて、二人で一緒にレコードを聴くようになるんですよ。最初に一緒に聴いたのはザ・フーの『四重人格』(1973年)。2枚組のロック・オペラだというので、どんな内容なんだろうと二人で歌詞を読んであれこれ話したり、そこに歌われている“青春の苦悩”みたいなものにシンパシーを感じてさらに歌詞を深く読み解いたり。添えられていたブックレットのビジュアルがめちゃくちゃかっこよかったのも衝撃的でしたね。音楽を聴くことで何かが変わっていく、自分の中で何かが救われていく過程でもありました。そうやって釜井くんと一緒に歌詞に触れたことで、僕は歌詞に興味を持つようになるんですよ。釜井くんが「歌詞がいい」と勧めてくれたブルース・スプリングスティーンを聴いてみたり、前から好きだったポール・ウェラーの歌詞の気になるフレーズをチェックしたり、当然RCサクセションの清志郎さんの歌詞を丁寧に読み直したり。ユーミンの『昨晩お会いしましょう』(1981年)の歌詞にグッときたのもこの頃ですね。当時付き合っていた女の子から借りた大貫妙子さんの『ROMANTIQUE』(1980年)の歌詞をいいなあと思ったりもしてた。気に入った歌詞を写経のようにノートに写すようになったのも、その頃から。浮かんでくるイメージを絵にして、書き写した歌詞に添えたりもしてました。

――どんな歌詞が気になっていたのでしょう。

 言葉の中に“救い”みたいなものをすごく求めていた気がします。僕らは前を向いて突破していくんだ、みたいなフレーズに出会うと勇気づけられたりしてね。励まされるフレーズを探していたんだと思います。

――いろんな歌詞を書き写す中で、自分でも詩や歌詞を書いてみようという気にはならなかったんですか。

 なりませんでしたね(キッパリ)。友達の女の子には「将来ミュージシャンになるんだ」と話していたくらいだから、やる気はあったんですよ。やる気はあったんだけど、作る気はまったくなかったっていう(苦笑)。

――曲も?

 曲も。でも自信だけはすごくあって、自分は将来ミュージシャンになると信じてました。“俺はいつかやる男だ”というイメージだけは揺らがなかったんですよ。結局、最初に僕が歌詞を書いたのは加藤とFLYING KIDSを結成してから。カバーをやりつつオリジナルも作ろうということになって、加藤がベースを作ってきた曲に詞を書いたのが最初だったはず。


インタビュー : 木村由理江