147. 「これじゃないんだよなー」と思ってばかりだった曲作り
――当時の会報に「2000年3月1日 事務所で契約についての話し合い」とありましたから、コトが動いたのはこの頃ですね。翌2日に「曲作り」とあり、8日に「プロデューサーに下山淳さんを迎え5曲をデモレコーディング」とありました。動きを止めていません。
元ルースターズのメンバーだった社長の安藤さんが、ルースターズのギタリストの下山さんを紹介してくれて実現したセッションでした。キーボードはKYONさん、ベースは井上富雄さん、ドラムは湊雅史さんと三浦智津子さんという錚々たるメンバー。3日間くらい中野のスタジオに入って『飛び魚』(未発表曲)と『桜の園』と・・。他に何をやったのかな。僕が温めていたアイディアをもとに、いきなりスタジオでセッションして『オンナライフ』のデモテープを録ったりもしました。とてもいい刺激になったし、素晴らしい演奏の音源も録れたんですけど、その後、発表したのは『boot1』に入っている『オンナライフ』だけかな。理由? 僕の作った曲がイマイチだったんですよ。これは自分にしかできない革新的な曲だと確信が持てなかった。だからと言って、明確なイメージがあったわけじゃないんですけどね。それからしばらく、曲ができるたびに「これじゃないんだよなー」と心の中でぼやいてました。
――当時の会報には、2000年4月17日に完成させた『時はただいまだけを乗せて』(アルバム『AIと身体のSWING』収録)について「やっと満足なものがひとつ」とありました。
光が見えたのは確かでした。ただそこからの道のりがまた長いんですけど(苦笑)。曲のアイデアは次から次へと出てきていましたから、よっぽど作りたかったんでしょう。作っているうちに新たな展開が見えて、また次の曲を作る、という感じでした。
――レコードレーベルの廃止、事務所の移籍、半年間の表立った活動の制限と続く中で、浜崎さんは落ち着いた精神状態でいられたのでしょうか。
気がついたら霧で覆われて真っ白な北海道の釧路にいたということがありまして、それがこの頃だった気が・・(苦笑)。落ち込んだりもしていたんでしょうけど、僕の場合、どこか明るいんですよ。意欲は少しも失われていませんでしたから、先が見えない状況にビビっていただけなんだと思います。
――6月下旬には同じ事務所だったTHE BACK HORNのミニアルバム『風船』(2000年9月25日)の共同プロデュースをしています。初めてのプロデュースですよね。これはどんな経験でした?
プロデュースというか、メンバーと一緒にレコーディングの監修をしたという方が近いですね。お互い、相手のことをほとんど認識していないところ始まったんじゃないかな。レコーディングは山中湖のスタジオで一泊二日。そこで僕が彼らに伝えたのは“プロとしてのクオリティ”の大切さでしたね。音程やリズムは外さないほうがいいよ、という基本的なことだった気がします。一方、僕は、純粋に音楽と向き合う彼らにすごく惹かれたし、理屈無縁の野生的なパッションみたいなものをガッツリ浴びて、忘れていた大事なものを思い出させてもらいました。

(母と浜崎3兄弟。左が私。撮影は父。)
インタビュー : 木村由理江
