146. ソロ初ツアーのあとに待っていた思いもよらぬ急展開

――アルバム『新呼吸』(1999年11月20日)発売後、12月2日からソロ初の東名阪ツアー“処女航海”が大阪から始っています。3日が名古屋で、6日が東京。バンドのメンバーはギターが加藤英彦さん、ベースが前田啓介さん、キーボードが五十嵐宏治さん、ドラムが波田野哲也さんでした。マドンナの『LIKE A VARGIN』で登場し、山口百恵さんの『ひと夏の経験』など、2度のアンコールを含め20曲披露したようです。

 今の2曲はツアータイトル“処女航海”にかけた選曲ですね。この時の僕は、「ソロのミュージシャン・浜崎貴司の明確な方向性を示したい」という想いがとても強かったんですよ。バンドをバックに歌うというスタイルは同じだけど、ソロになった浜崎貴司はFLYING KIDSの時とは明らかに違うと感じてもらいたかった。加藤くん以外は新しいメンバーなんだから、十分別物になるのは明らかなのに、肩に力が入り過ぎていたし、とにかくもう一杯一杯で、ライブの記憶はほぼゼロです。メンバーと一緒に旅をするのは楽しかったけど、お客さんを十分に満足させられたかどうか、疑問が残ります(苦笑)。ただ最終日の渋谷では感極まった記憶があって。アルバムがついに完成して、新しいレーベルの若いスタッフが一生懸命やってくれていて、やっとステージに帰ってこられて、そこにたくさんの人が来てくれている・・。いろんな想いが去来して、非常に感慨深かったんだと思います。充実感もありました。

――その次に浜崎さんがステージに立つのは、2000年11月11日、ワンマンライブ“充電シスギ”です。その間、約11ヶ月。何があったんですか。

 2000年に入ってすぐ、所属していたレーベルがなくなるとレーベルの社長を兼任していた事務所の社長から聞かされまして。親会社のソニーレコードが、インディペンデントスタイルで展開していたレーベルプロジェクトからの撤退を決めたんですね。事務所の社長の強い意向もあって、愛着のあった前のレコード会社の誘いを断って契約したレーベルだったので、気持ちはすごく複雑でした。で、いろいろ考えるうちに「これは“潮時”なのかな」と。それで「事務所を辞めさせてほしい」と申し出たんです。“初代イカ天キング”になったあと、何ヶ月も事務所が決まらなかったFLYING KIDSに手を挙げてくれた社長には深い恩義を感じていましたけど、もう十分報いたのではないかと思ったし、僕にはちょっと保守的に感じられていた社長の元を離れ、ミュージシャンとしてもっといろんな挑戦をしながら成長していきたいという気持ちが強かった。今振り返ると、自分を支えてくれているスタッフのために稼がなきゃいけないということに想いを巡らす度量が、当時の僕にはなかったんですね。頭の中は音楽のだけの、器の小さい男でした(苦笑)。

――次にFLYING KIDSのレコード会社だったビクターの系列のスピード・スターミュージックに移籍。元の鞘に収まった、という印象でした。

前の事務所と契約解除の話し合いが済んだあと、FLYING KIDSのディレクターだった安藤広一さんに会いに行ったんですよ。彼は当時スピード・スターミュージックの社長をしていて、「それならまた一緒にやろう」と言ってくれたんですね。ただ契約解除に際して「半年間は表だった仕事はしないこと」というお達しが前の事務所からありまして。その間、派手な動きはせず、一人で、でも精力的に楽曲を作っていました。

(父の弟・光久叔父と私。昭和41年1月。私はまだ0歳。7ヶ月でした。)


インタビュー : 木村由理江