134. ソロ活動の最初はユニットで、と考えていた

――1997年2月12日に渋谷公会堂でのラストコンサート「これからの君と僕のうた」終了後、メンバーはそれぞれどのように?

すぐに始まったのは伏島プロジェクトでしたね。女性ヴォーカルの5人組で、丸山さんと飯野さんもメンバーでした。加藤くんはソロのギタリスト&作家に、中園さんとじゅんちゃんはデビュー以来ずっと勤めていたデザイン事務所の専業に。中園さんは直後にドラムセットを売り払ったらしいです(笑)。事務所に残ったのは飯野さんと僕で、僕は事務所の社長がソニーミュージックと作ったラインズレコードというレーベルと契約し、ソロデビューに向けて動き始めました。3月にはNYで紀里谷和明さんとデモテープを作ってましたね。

――現在、映画監督として活躍する紀里谷和明さんとはどこで出会ったんですか。

 僕が今も親しくしているカメラマンの小暮徹さんとイラストレーターのこぐれひでこさんご夫妻のお宅が、当時は“梁山泊”みたいになっていて、毎日のようにいろんな人が集まっていたんですよ。小泉今日子さん、高城剛さん、エドツワキさん、スチャダラパーのメンバーとかいろいろ。カメラマンの桐島ローランドさんがそこに、NYのアートの学校で知り合った紀里谷さんを連れてきたんです。白いスーツ姿で、めちゃくちゃかっこよかった。話もおもしろくて、以後、彼がNYから帰ってくるたびに会ってました。なにより新鮮だったのは、日本人離れした、何にもとらわれない発想や考え方です。FLYING KIDSをどう維持していこうか行き詰まっていた僕に、彼が「NYで音楽を作るのもありなんじゃないの?」と。その一言はとても大きくて、次のステップを考えるいいきっかけになりました。僕が望んでいたのはバンドの解散というより、いろんなことに決着をつけてしまうことだったのかもしれないんですけどね。

――紀里谷さんは当時、音楽をされていたんですか。

いや。彼はまだ何者でもなかったですね。写真は撮っていたみたいですけど、日本ではまだ仕事はしていなかったはずです。その後、桐島さんの紹介でカメラマンとしての仕事が日本で始まり、当時僕と同じ事務所だったTHE BACK HORNというバンドのMVで映像監督として知られるようになり・・。それが発展して念願だった映画監督になったということですね。

――ステップの駆け上がり方が驚異的ですね。

出会った頃から彼のやる気とヴィジョンとセンスはすごかったんですよ。音楽に関しても、ギターの腕と楽曲作りの才能は未知数だったけど、コンピューターには詳しくて、すでに(音楽制作ソフトの)プロトゥールスを使ったレコーディングを始めていた。楽器が演奏できなくても、バンドがなくても、プロトゥールスを使えばいろんな作品が作れるというのは衝撃でした。「必要ならNYのミュージシャンも紹介するよ」と彼は言ってくれて、おもしろいことができそうだ、二人でユニットを組んでやろうと考えたんです。

――NYでのデモテープ作りはいかがでした?

半月くらい行ってましたけど、(刺激的な環境に身を置くことで)“とんでもない自分”に出会えるんじゃないかと期待していたにもかかわらず、できてくる曲はどれもイマイチだったし、メンバーがいたら曲にできるモチーフも、自分一人では形にできず・・。観光という意味では楽しかったけど、収穫はほぼゼロ。要するに、ソロを始める準備が整ってなかったということです。でも年内にデビューすることは決まっていましたから、見切り発車するしかなかったんですよ。

(テレビ神奈川の番組で一緒になったミスターチルドレンのメンバーと。)


インタビュー : 木村由理江