130. あんなにスベったのは人生で初めて

――“解散”を口にしたのは浜崎さんだったんですか!?

 解散をみんなに提案しようと決心したのは、白金台にある都ホテル(現・シェラトン都ホテル東京)でメンバーだけのミーティングをする前日くらいだった記憶があります。当日は、僕が知っていた周辺の事情は何も言わず、「自分はNYに行って音楽を作る可能性もあるから」とだけ話したはずです。割とすぐに「浜崎がそう言うなら仕方ない」とみんなが受け入れてくれた。確かめたことがないから本当はみんながどう思っていたかわからないですけど、「嫌だ」とは誰も言わなかったですね。メンバーは僕に気を遣ってくれていたし、そうなることはどこかで予想していた気もします。「絶対やめたくない」という人がいたら・・? うーん。それはわからないです。先のことはまだ何も決めてはいませんでしたから。でもそこで一つの結論が出たことで、僕はスッキリもしていました。あとでわかったのですが、「もう続けられないかも」と思っていたメンバーも何人かいたようです。

――事務所やレコード会社が「考え直して」と慌てて働きかけそうですが・・。

 事務所もレコード会社も「メンバーが決めたのなら仕方がない」という感じだった気がします。で、すぐに目前に迫っていたツアーをどうするか、いつ発表するかについての話し合いがメンバーとスタッフで持たれて、御涙頂戴みたいなツアーになるのはちょっと耐えられないからツアーは普通にやって、最終日のアンコールで解散を発表しよう、年明けにラストコンサートを一度、開催しようということになったんです。“解散”に“開散”の字を当てようと僕が提案したのもその時です。「ここでピリオドを打つのは次に行くためで、これが終わりじゃないよ」という想いを伝えたくて。その時点で再びみんなが集まるという確信はありませんでしたけどね。

――最後のツアー”Down to Earth”ツアー(全5本)はどんな雰囲気でしたか。

お客さんはそれなりに入ってくれたし、各地、盛り上がってくれました。楽屋の雰囲気? そんなに暗くはなかったはずです。じゅんちゃんはたまに涙ぐんたりしてましたけど。ツアー最終日の前日、事務所からの帰りに駐車場に向かう途中、「明日、オレが発表するんだなー」と考えた途端、なんとも言えないドキドキに襲われたりしましたね。当日も発表のことを考えると朝から心配で心配で。最初のアンコールを何事もなく終え、ダブルアンコールに応える形で発表のために一人でステージに出て行ったんですが、緊張で右手と右足が一緒に出ちゃっていたのを今でもはっきり憶えています(苦笑)。「なんでオレが発表しなきゃいけないんだよ!」とも思ってました。でもそういうとんでもない発表をする時って、例えそれがネガティヴなことだとしても、どっかで「みんなを驚かせてやる!」みたいな、よからぬ気持ちになったりするんですよ。で、発表したら悲鳴と静寂でしょ。「あ、こうなるんだ」と思ってショックでした。だってある意味、スベってるわけじゃないですか。あんなにスベることって人生で滅多にないですよね(笑)。もう全然おもしろくなかった。

――そのあとの『幸せであるように』はどんな心持ちで歌っていたんですか。

 いやあ・・。もうやり方を完全に間違えましたね。コンサートを楽しみに来ていた人たちに、直接発表する必要があったのか? とあとから思いました。ああいうレアなことを目撃したというのは、ひとつのエンタメと言ってもいいのかもしれませんけどね(笑)。発表したことで終演後の僕は晴れ晴れとした気持ちでした。何かを終わらせてしまうことの感傷的な興奮みたいなものを、どこかで抱えていた気もしますけど。

(1996年12月、読売新聞に掲載されたインタビュー記事。)


インタビュー : 木村由理江