119.新たな体制で臨んだ初期最後のアルバム『Down to Earth』

――アルバム『真夜中の革命』の発売に先駆けて1996年11月21日から全12本のツアー”’96 WINTER TOUR ディスカバ“が始まっています。

数年前、当時まだ中学生くらいで今はDJをやっている人たちに「FLYING KIDSは次から次へインパクトのあることをやってくれるバンドという印象があった」と言われてちょっと嬉しかったことがあるんですが、僕は常にそういう想いで作品を作っていたし、アルバム『真夜中の革命』の仕上がりにもとても満足していました。充実感も大きかったし、ツアーには気合を入れて臨んだはずです。シングル『ディスカバリー』も話題でしたから、お客さんもたくさん来てくれて、各地、盛り上がりってましたね。この頃にはライブのあとに各地の知り合いと食事をしたり、レコード会社の地方営業所のスタッフとお酒を飲んだり、ツアーをだいぶ楽しめるようになっていました。

――翌1997年4月23日には17枚目のシングル『Love & Peanuts/本当は強く抱かれたいのに』が発売ですから、年明けすぐにまた制作が始まっていたということでしょうか。

 おそらくそうでしょうね。年が明けてすぐの頃だったと思いますけど、メンバーとスタッフを交えたミーティングがあったんですよ。音楽誌のインタビューではメンバーもアルバム『真夜中の革命』の仕上がりに満足しているようなことを言ってましたけど、そこではいろんな意見が出まして。丸山さんに「自分はあまりピントが合ってない」というようなことを言われたり(苦笑)。丸山さんのことだから、率直で素直な感想だとわかってはいるんですけど、ちょっとがっかりしちゃったのを憶えてます。さらに事務所のスタッフからも「ちょっと方向性が違うんじゃないか」、「浜崎がひとりでがんばりすぎじゃないか」、「もっと他のメンバーのことも考えようよ」という意見があり、それにもまたショックを受けるという・・(苦笑)。僕としては「みんなを引っ張って次のステップへ行くんだ」という想いで時間もアイディアもすべて注いでいましたからね。それで、次作は事務所の社長をプロデューサーにして、メンバーみんなが曲を書き、役割と責任を均等に、1/7ずつ担おうということになるんです。

――アルバム『FLYING KIDS』以降、バンド名義だった作曲のクレジットが個人名になっている理由もその辺りにあったんですね。

 貢献の度合いに違いはあっても、最終的にみんなでアイディアを出し合っているわけですから、名義をFLYING KIDSにしてみんなで印税を分けようということだったんですけどね。

――新たな体制になることで浜崎さんはそれまでのプロデューサー的な立場を離れることになるわけですよね。それをどう受け止めたんですか。

 当然複雑でした。でもみんなで話し合って決めたことだったしメンバーがそれを望むならそれでいいか、と。僕はバンドを維持したいという一心だったから、前向きに受け入れました。自分にも問題はあったわけだし、楽曲を制作することにいっぱいいっぱいで、全体をプロデュースできるほどの技量はなかったんだなと理解できました。僕もちょっとへとへとでしたから、あまり気合を入れすぎないようにしよう思ってましたね。やるべきことはもちろん全力でやりますけど、あとはみんなにお任せしよう、と少し引いて見ていたと思います。

(大学時代の手帳。1986年1月と思われる。A彦は加藤英彦。1/30に高尾へ。2/3の四谷のFOURVALLEYでのライブリハーサル。バックウォーターというバンドのボーカルを頼まれた。メンバーはフセマン、加藤英彦、中園浩之、丸山史朗、飯野竜彦。)


インタビュー : 木村由理江