32.初めてのレコーディングからセルフプロデュース
――デビューシングルとファーストアルバムのレコーディングはいつ頃ですか。
1989年の秋くらいから年末にかけてだったと思います。当時は発売の3ヶ月前には音源を完成させるというのが通常のスケジュールでしたから。キーボーディストでマニピュレーターの福田裕彦さんがサポートというか監修で入ってましたけど、あとは自由に、好き勝手に自分たちで作ってました。ディレクターの大友さんがジャッジしてくれることももちろんありましたけど、あまり細かく言う人じゃなかったし、「みんなの好きなようにやっていいよ」と言われていたので「じゃあ」と。
――この7人ならセルフプロデュースで十分と、周りの人は判断したということでしょうか。
アマチュアリズムの可能性みたいなものが音楽シーンを変えた部分もあったから、“大人たち”が用意したルールじゃないところで生まれてくる新しい音楽を聴きたいという“時代の空気”みたいなものもあったんだと思います。僕はまったくのど素人でしたから、レコーディングに関してはわからないことだらけでした。それが逆に武器になっていたところもあるとは思いますけどね。レコーディングに詳しいメンバーもいましたから、ファーストアルバムは割とすんなりレコーディングできました。それが2枚目、3枚目となると、スタジオでみんなで考える時間が長くなり、翌朝の4時、5時は当たり前、ひどい時には7時くらいまでやり続けたりするようになり・・。スタジオ使用料はタダだと思っていたんですね。4枚目のアルバム『ゴスペルアワー』のレコーディング中に、「できないことはやめましょう」とディレクターの田村さんに怒られるまで、ずーっとそんな感じでした(苦笑)。
――ファーストアルバムはどんなアルバムにしたいと思っていたんですか。
ザ・ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』やザ・フーの『四重人格』のようなトータルアルバムに対する強い憧れがあったので、自分たちのファーストアルバムもそういうものに、という想いはありました。ディレクターの大友さんもそれに賛同してくれて、「だったら教会で、信者が集まっている風な音をいろいろ録音して、それで曲間をつなごう」と提案してくれた。当時の僕の歌い方や歌詞はゴスペルを参考にしていたし、教会で信者の方々が興奮して最終的にトランス状態になるように、自分たちのコンサートもお客さんが我を忘れて踊ったり歌ったりするようなものになるといいと思っていましたから、そのあたりを汲んでくれたんだと思います。それでゴスペル風の雰囲気の中にファンクな曲がガツガツ並ぶアルバムにしよう、と。上北沢にある松沢教会をお借りして、知り合いや関係者に集まってもらっていろんなシーンの音を録ったのを憶えていますね。誰かが連れてきていた赤ちゃんの声がやたらと入っていますけど、“人生=誕生から死までの時間”みたいなものを、アルバムに封じ込めたいという想いもあった気がします。
(1978年、中学生の時に父に連れられて行った後楽園球場。手前が13歳の自分、中央が兄、奥の本を選手名鑑を見ているのが弟。)
インタビュー : 木村由理江