31.初ワンマンのパワステはギリギリの体調だった

――番組出演以前は2本しかライブをやっていなかったFLYING KIDSは、初代グランドイカ天キングになった途端、次々とイベントに出ていきます。

 秋にはメンバー5人の母校の東京造形大学と飯野竜彦さんの母校の多摩美術大学の学祭にも出ましたからね。造形大学のライブはまさに“凱旋”の盛り上がりでした。多摩美の学祭はオールナイトで有名で、僕らが出たのも深夜近かったはず。出演者も多彩で、すごかったですよ。あの頃はテレビの世界だけでなくアングラの舞踏集団のパフォーマンスを目にする機会があったりと、触れるものの幅がどんどん広がっていただけでなく、“打ち合わせ”と称して都内のいろんな街に出かけてはいろんなお店で食事をする機会も急激に増えていた時期で、自分の世界がパーッと広がっていく感覚がありました。12月には「イカ天」のイベントで福岡と広島へ行って、それもいい経験になりましたね。FLYING KIDSを含めて3バンドだったのかな。2カ所だけでしたけどどちらも行ったことのない街で、生まれて初めてのツアーですから、ワクワクしていた気がします。芝浦インクに比べるとどちらのライブハウスも小ぶりで、東京ほどの盛り上がりもなかったけど「ツアーで全国を回るというのはこういうことか」と知ることができたし、福岡では屋台に行き、広島では広島風お好みを食べ、食文化や言語の違いに触れてカルチャーショックも受けた。なんかドキドキしてました。ただ神経質ですからね。“いつもの感じじゃない”ことへの不安感みたいなのもあって、複雑な気持ちで移動してたと思います。

――年明けには「輝く! 日本イカ天大賞」で日本武道館のステージにも立っています。

この時はとにかくバタバタしてたんですよねー。たまの3人と初めて話したのは憶えてますけど、歌ったのは1曲だったか2曲だったか・・。当時は武道館に対するありがたみも薄かったですからね。もうちょっとしっかり味わっておけばよかった(苦笑)。

――1990年1月14日の日清パワーステーションでの初ワンマン、次のクラブチッタのワンマンについて思い出すことは? パワステは700枚のチケットが即日完売でしたよ。

 即日完売は嬉しかったです。ただ僕たちはチケットの手売りで苦労したことがなかったから、ありがたみをどこまで理解できていたか・・。ワンマンはセットリストを決めるのがすごく大変でしたね。今のように前もってなんとなくのセットリストを用意することもなく、リハスタで実際に曲を演奏して、僕を中心にインスピレーションで次の曲を決めていくというやり方。例えば1曲目から6曲目までが決まったら、また頭から演奏して同じように7曲目以降を決めて、またある程度決まったら頭から演奏してその先を、という具合でした。双六方式、とでもいうんでしょうか。今考えると面倒臭いですよね(苦笑)。

――本当に(笑)。パワステとクラブチッタのライブのことは憶えてます?

 すごく楽しみにしてたはずですけど、当時の記憶がほとんどないんですよねー。そういえば最初のパワステの直前、風邪ですごい高熱を出しちゃいまして、ビクターの大友さんの家で大友さんと大友さんの奥さんに看病してもらいました。ライブ当日になんとか熱が下がってパワステに行きましたけど、結構ギリギリの体調だったから、みんなが盛り上がっていた景色は記憶にあるけど、他のことはあまりよく憶えてないですね。確か次の日のスポーツ新聞に、写真入りでライブのことが掲載されたんじゃなかったかな。パワステもクラブチッタも、その当時のトレンドでしたから「おしゃれだなー、俺たち」くらいの感覚だったのかもしれない。当時の自分たちは何も把握できてなかったし、ただ事務所に伝えられたスケジュール通りに動いて、ステージに立ったらとにかく完全燃焼するという感じでした。考える余裕が、全然なかった。

(写真は日清パワーステーションでのライブの模様。)


インタビュー : 木村由理江