109.サングラスを外して投げる演出も話題になった『真夏のブリザード』
――アルバム『HOME TOWN』を携えた”TORNADE TOUR 1995-1996”が終わったのは1996年1月19日でした。14枚目のシングル『真夏のブリザード/少年の宝物』の発売は5月22日ですから、お休みもそこそこにまた制作に入ったということでしょうか。
おそらく。この頃にはリハーサルスタジオを借りて全員で入る、というやり方ではなく、事務所が新たに作ったプリプロ用のスタジオでマルチレコーダーのA-DATに録音した音源をレコーディングスタジオに持ち込んで作業を進めるようになってました。その方が経費的にも時間的にも効率的だったんですよ。僕は毎日スタジオに通い、フセマンもほぼ毎日、他のメンバーはそれぞれの状況に応じてスタジオに顔を出してました。会社に勤めていたメンバーは夕方から顔を出したり。僕はとにかくずーっと作ってました(苦笑)。
――アルバム作りはTBS系「王様のブランチ」のエンディングテーマで、15枚目のシングルでもある『真夏のブリザード』(1996年5月22日)から始まったわけですね。
そうです。サンタ・エスメラルダの『悲しき願い』(1977年)のようなラテン系のディスコソングをやってみるのはどうか、という僕のアイディアから始まった曲で、“真夏のブリザード”という言葉を提案したのも僕です。その言葉で楽曲が作れそうな予感がしたんですよ。初期のFLYING KIDSとはかけ離れたサウンドですけど、J-POPという枠組みの中でFLYING KIDSに何ができるか、あらゆる可能性に挑んでいこうと僕はこの時考えていたんだと思います。“とにかくポップでヒットするものを”という期待を一身に背負っているような気持ちでいたし、“世の中にいかにインパクトを提供するか”が当時の僕のテーマでしたから、わかってはいたけど“初期のFLYING KIDS像”に戻る余裕が全然なかった。リリース前提のこの曲は、とくに起爆剤になりそうなものにしたかったんでしょうね。
音源を聴いた事務所もレコード会社は予想外の展開に驚いていたし盛り上がってもいました。サングラスをかけて途中で外して投げようという演出も、スタッフのアイディアです。やってみようと思ったのは沢田研二さんの影響じゃないかな。『君だけに愛を』もカバーしてたし、『カサブランカ・ダンディ』のウイスキーの霧吹きとか『TOKIO』の派手な電飾付きスーツとか、ジュリーのようにFLYING KIDSでも次々と新しいことをやれるんじゃないかという期待と「そこまでやってしまえ!」と突っ込んでいくような勢いが両方あった気がします。FLYING KIDS的には最も芸能界寄りで“歌謡曲的な曲”になりましたね。
――メンバーの反応はどうでした?
違和感を感じていたメンバーもいたと思います。ただ僕はすごく気合が入っていたし、スタッフも盛り上がってましたから、この曲をやると決まってからはみんな必死にアイディアを考えてくれたし、手を抜くことは一切なかった。今、聴いてもそれを感じます。非常に歌謡曲的でありながらちゃんと立派にFLYING KIDS節になっているのは、レコーディングに外部のミュージシャンが参加した時期もあったけれど、基本的にはずーっと全員でやり続けてきたからでしょうね。そのことを今聴いて、改めて思いました。もっと激しく歌ったほうが、この曲の持っている“ソウル”みたいなものをちゃんと出せたんじゃないかな、とも思いましたけど(苦笑)。

(1993年頃にパリに行った時、パリ在住の友人とふざけて撮影したもの。)
インタビュー : 木村由理江