100.重いテーマも“ポップス”にしようとした『とまどいの時を越えて』

――『とまどいの時を越えて』は12枚目のシングル。1995年4月24日の発売です。資生堂「ヘアエッセンスシャンプー」のCM で流れました。

 依頼をいただいて作った曲です。宮沢りえさんが出るということでしたし、『風の吹き抜ける場所へ』から始まった「アップテンポのシングルを作るぞー」という勢いの中、ダンスミュージックになりうるFLYING KIDS流のポップスに最大限挑戦しています。この時点で自分たちのできることを全部詰め込んだ曲でした。

――パーカッションとホーンもいいですね。

 山本拓夫さんのホーンアレンジは本当に素晴らしかったですね。積極的に外部のミュージシャンにお願いするようになっていた頃です。ディレクターの安藤広一さんも「そういうの、どんどんやっていいんじゃない?」と、そのための予算も引っ張ってきてくれていたんですよ。以前ならメンバーがギクシャクするシチュエーションでしたけど、この頃は当たり前のように受け入れてました。外部のミュージシャンが参加してくれることで楽曲がパワーアップするのを実感していたんでしょうね。

――歌詞は1995年1月17日の阪神・淡路大震災後に書かれたものなんですか。

 テーマになっているのは“喪失感”ですが、きっかけは実家で同居していた父方の祖母が亡くなったことでしたね。そこに起きた阪神・淡路大震災で感じたことが含まれていった。メッセージ性のあるちょっと真面目な歌詞にしてみようと考えたのは、タイアップがついていることである程度セールスが見込めるはずだと思ったから。重いテーマも“ポップス”にしてしまえるはずだと信じてもいたし。プレゼンした歌詞がすんなり通った時は嬉しかったです。ただ反応も売れ行きも、予想していたほどじゃなかったんですけどね。

――それはどうしてだったんでしょうね。

 みんなは違うものを求めていたんだと思います。1月の阪神・淡路大震災に続いて3月20日に地下鉄サリン事件が起きて、社会の空気がどんどん重く、暗くなっていたからこそ、音楽にはもっと違うものを想起させてほしい、もっと突き抜けたエンターテインメントで楽しませてほしいと思っていたんでしょうね。タイアップがついていることに、僕がどこかで甘えてもいたところもあったのかもしれないし・・。あの頃は僕自身が重い気分から抜け出せなくなっていたのも確かなんですよね。震災直後の大阪のライヴで『僕が言える事のすべて』が途中で歌えなくなってしまった時のなんとも言えない感情がずーっと残っていて、それがこの歌詞の“核”のひとつになった気がします。仮にもっと突き抜けた次元で楽曲を作ろうとしていたとしても、理屈っぽいものになっていたかもしれない。だからきっと、これしか答えは出せなかったんでしょう。あとから、当時若者だった人たちに「あの曲が力になった」とは、何度も言ってもらいましたけどね。

(1982年1月の浜崎家。左から二番目が父方の祖母・静江。 )


インタビュー : 木村由理江