99.バンド内の関係性は新たな段階へ
――アルバムのタイトルを『Communication』にしたのは?
出来上がってきた楽曲を俯瞰した時に、人と人の関わりみたいなことがどの曲でも歌われているな、と。まあそれは僕が現在に至るまでずーっと抱えているテーマでもあるんですけどね。それで『ザ・バイブル』から新しくなったアートワークのスタッフとジャケットに関するミーティングをしていた時に「タイトルは『Communication』にしようと思ってる」と話しました。ややこしいタイトルのアルバムが過去にはありましたけど、無駄なくシンプルにアルバム全体を表現したかったし、〈FLYING KIDS『Communication』〉は字面的にもかっこいいし新鮮なんじゃないかと思って。
――アルバム『Communication』のレコーディングを経て、バンドに変化はありましたか。
すでに話したように「もう一回一致団結しよう」とギアを入れ替えて作業に入りましたから、ある種、新しい関係の中での音楽作りでもあったし、ここから少しずつ“仕事”としての色合いが濃くなっていった気がします。音楽的なことを含めいろんなことに違和感を感じても「でも仕事だから頑張ろう」と目をつむっていたメンバーもいたでしょうね。このアルバム以降、ライヴツアーの本数も増えていくんですけど、アマチュアの頃のように無邪気にワイワイやっていたのは最初だけだった気がします。このアルバムで得られた、自分たちが数年かけて追求してきたFLYING KIDSのポップス=新しい日本のポップスをついに作れたという手応えは本当に大きかったです。予想していたほど売り上げは伸びず歯痒い部分もありましたけど、それなりに評価もされて自信になりました。
――アルバム『Communication』を出した翌月、全4本の”NEW POWER COMMUNICATION“のツアーが始まります。その直後の1995年1月17日、阪神淡路大震災が起きています。そのあとに大阪でライヴをしたそうですね。
「こんな時に・・」というためらいもありましたけど「やるからにはみんなに喜んでもらわなくちゃ」という気持ちで、セットリストは一切変えずに臨みました。客席は1/3くらいが空いていたのかな。ずっと複雑な気持ちで歌っていたんですけど、『僕が言える事のすべて』の途中で歌えなくなってしまった。ライヴはチケットを買ってわざわざ来てくれたお客さんと音楽を通して交流する場だという特別な感覚がありますから、歯抜けの客席を見ていたらなんとも言えない気持ちになって・・。途中で歌えなくなったのは初めてでした。
――さらに3月には地下鉄サリン事件も起きて、世の中に不穏で不安な空気が漂い始めます。その辺りはどう受け止めていたのでしょう。
それ以前から抱いていた“自分の立っている場所はカオスである”というイメージが、より一層深まった事件でしたね。善悪の基準とか思い描いていた未来の展望とか、当たり前に思えていたものが大きく揺らいだ時に、自分は一体何が歌えるのかということを考え始めました。“愛し合える喜び”という単純なことでいいのか、と。音楽は音が持つ快楽を追求するもので歌詞は付随するものでしかないんですけど、言いたいことがあって楽曲が生まれることもありますからね。その答えを一生懸命出そうとしたのがそのあとに作る『僕であるために』とか『とまどいの時を超えて』です。“愛”というものをちょっと宗教的に扱う歌が多くなりましたね。

(1993年のツアーのフライヤー。 )
インタビュー : 木村由理江