91.カメラマン・小暮徹氏の言葉が生んだ閃きと確信
――ドラマ『もしも願いが叶うなら』(1994年1月~)で初めて演技に挑戦した感想は?
当時は「演技? できるんじゃないの?」と安易に考えてました(苦笑)。プロデューサーや脚本家の遊川さんも僕が素人なのは重々わかってくれてましたから、最初は猫を抱いてばかりで、セリフも少なかった。でもそういうのが功を奏してうまく役にハマったんでしょう。ドラマもヒットしてよかったです。それで10月からのドラマ『僕が彼女に、借金をした理由。』からも声がかかり、役者の仕事が少し来るようになりました。僕と同じく『もしも・・』でドラマに初挑戦したTo Be Continuedの岡田浩暉くんは、その後、水を得た魚ように本格的に役者業に進んでいきましたね。とにかく僕は打開していく、人生をここでもう一度塗り替えていくという気持ちでした。
――打開はできたんですか。
何よりドラマの現場が和気藹々でめちゃめちゃおもしろかったんですよ。「こんなに楽しくていいのかな」と思うくらい。並行してレコーディングもしていましたから毎日クタクタでしたけど、その疲れも吹き飛ぶような現場でした。何よりすごかったのは、浜田さんの持っているエネルギー。僕は初めて会う気でいたら、顔合わせの時に「久しぶりやな」って。以前『夢で逢えたら』(1988年~1991年放映 フジテレビ系列)の“バッハスタジオ”というコーナーでFLYING KIDSとセッションしたことを憶えてくれたんです。それですぐに打ち解けて、あとはワイワイがガヤ。2歳年上の浜田さんは当時すでに大スターでしたから、日本中を魅了するオーラ、エネルギーを近くで浴びられたことはすごくいい勉強になりました。現場がとにかく活気に満ち溢れていて、「こういう明るいエネルギーが人を楽しませるんだ」、「仕事ってこうやってするものなんだ」と思えるようになったことも本当に大きかった。アルバム『FLYING KIDS』を作る頃から「聴いてくれる人を元気にしたい」という気持ちは芽生えてましたけど、ドラマの現場がその気持ちを底上げしてくれて、それがアルバム『Communication』に繋がっていった。そういう意味も『もしも願いが叶うなら』に出たことはすごくいい経験でしたね。だからドラマが終わった時はちょっと寂しかったですよ。浜田さんと中山さんと岡田くんと僕のグループLINEはずーっと続いて、たまに食事会をしたりしています。
(中山美穂さんは2024年12月6日に逝去されました。ご冥福を心からお祈りいたします。)
――6月発売の『風の吹き抜ける場所へ~Growin’Up,Blowin’In The Wind~』もドラマの撮影中に作っていたんですね。
そうです。1993年の年末くらいだったんじゃないかな。よく遊びに行っていたカメラマンの小暮徹さんのお宅で、僕が暖炉に火をつけようとして手こずっていたら、見かねた小暮さんが薪を組み替えながら「こうやって風の吹き抜ける道を見つけるんだよ」って。その言葉を聞いた途端、「これは歌になる!」と閃きました。メロディも歌詞もサウンドのイメージも一気に浮かんできた。事務所の社長にも「次は『風の吹き抜ける場所へ』というシングルを作ります。これは必ずヒットしますから」とプレゼンしました。それくらい確信めいたものがあったんです。

(ドラマ「もしも願いが叶うなら」のクランクアップの時の写真。)
インタビュー : 木村由理江