87.切実な想いがこめられていたアルバムタイトルとヴィジュアル

――アルバムタイトルは『Flying Kids~大人になれない子供達』を作る時点ですでに決まっていたんですか。

タイトルを決めたのはこの曲のあと、レコーディングの最後の方でしたね。この曲の想いも引き受けてはいますけど、それよりも『FLYING KIDS』というタイトルにしないと、バンドがバラバラになりそうな気がしていたというのが正直なところです。アルバムのヴィジュアルも、非常に優秀なデザイナーチームだったにもかかわらず、僕がちょっと混乱していたこともあって最終的に自分が描いたイラストを使っちゃうとか、カメラマンの植田敦さんの写真だけじゃなく、メンバーが撮った写真を使ってもらったりして、いかにもメンバー全員が関わって作ったアルバムのようにしようとしてた。そうすることでなんとかみんなをバンドに繋ぎ止めて、一緒に次へ行くぞ、という想いでした。ビートルズの『アビーロード』に近いです。「みんなでもう一回集まろうよ」みたいな(笑)。結果、誰も辞めなかった。ただこのあと、いろんなことが少しずつ変わっていったのは確かですけどね。

――1曲目が『大きくなったら』で最後の曲が『Flying Kids~大人になれない子供達』。タイトルだけみても、大人になりたい、でも子供のままでいたいという揺らぎを感じます。

 大人と子供の間で右往左往しながら曲を作っていたのは確かだと思います。もう子供じゃいられない、FLYING KIDSとしても自分としても成長しよう、脱皮しようという想いが、大人のようなポップスを作ることに向かわせたのかもしれないですね。葛藤していたことのすべてが、アルバムに吐露されている気もします。あの時のプロデューサーの中村哲さんとメンバーは、大人と子供の関係に近かった気がします。その間を繋ぐのが僕だったりディレクターの安藤さんでしたね。

――中村哲さんとの作業を通して受け取ったのはどんなものですか。

中村さんがFLYING KIDSに与えてくれたことはたくさんあります。今回、改めてアルバムを聴いてわかったこともたくさんあったし・・。感謝しかないですね。繰り返しになりますけど、メロディアスなものをFLYING KIDSの音楽に取り入れるためのヒントやファンクとポップスを融合させるためのヒントをたくさんいただいて、FLYING KIDSは単なるファンクバンドから脱却できた。当時はスタイリッシュ過ぎると思えたアレンジも、「FLYING KIDSをさらにわかりやすく伝えるには浜崎貴司の歌を聴かせることが一番だ」と考えてくれたからだろうし、そういうスタイリッシュなファンクへのプローチに触れたからこそ、改めてメンバーだけで作り始めた時に、そこにFLYING KIDSならではの泥臭さやメンバーのファンクへの深い想いやクリエイティヴィティをうまくブレントさせることができた。その後のFLYING KIDSにいろんなことが活きています。あの時、僕にもう少し余裕があって、もっと自分がうまく中村さんとメンバーの間を取り持てていたら、バンドをうまくマネージメントできていたらどうなっていただろうと思ったりもしますけど、1曲のために何日もスタジオに入るようなメンバー主導のレコーディングでは、リリースのスケジュールはとても守れなかった。いろいろ考えると、あれはあれで仕方がなかったのかなと思います。運命だったというか・・。あれがあったからこそ今があるのだな、という気がします。

(千駄ヶ谷のビクタースタジオの駐車場での集合写真。1990年頃。 )


インタビュー : 木村由理江