81.スタジオのトイレの個室で泣きそうになったことも
――1993年は2月に東名阪でクラブツアー、6月に東京・大阪・札幌でライヴを行なっています。スピードスター移籍第一弾シングル『大きくなったら/虹を輝かせて』が発売になったのは8月。翌9月発売のアルバム『FLYING KIDS』のインタビューでは「レコーディングに6ヶ月かかった」と話しています。レコーディングの体制はアルバム『レモネード』とほぼ同じですね。
『君とサザンとポートレート』と『レモネード』で売り上げが少し上向きましたから「次もこの路線、この体制で行きましょう」ということでした。プロデューサーの中村哲さんとマニピュレーターの迫田至さんは“さらにポップなFLYING KIDSの世界を作ろう”とエンジンをかけてくれたようでしたね。周りの人はあまり気づいていなかったと思うけど、メンバーのテンションは上がらず、(『レモネード』で生まれた)バンド内の空気は不穏なままでした。いい曲もなかなかメンバーから出てこなかったし。
――中村さんと迫田さんがアレンジの骨組み考え、それを打ち込みで作ったデモテープを元に作業を進めていくというスタイルでしたよね。
そうです。そもそもヒットメーカーの中村さんのプロデュース法を学ぶという気持ちが強かったから、何か思うことがあっても、外部のミュージシャンを起用したり打ち込みを使うことに関しても「プロデューサーが言うんだからそれがいいんだ」と受け止めようとしていたと思います。僕自身もそうでしたしね。ただメンバーは毎日スタジオに詰めてましたから、待機時間が続いたり自分たちのクリエイティヴィティを存分に発揮できない状況に対して思うことはいろいろあっただろうし、そのことで傷ついたメンバーもいたのは確かでしたね。だからと言って中村さんたちと変な空気になったりはしませんでしたけど。
でもレコーディングの後半になって「もうバンドを辞めたい」、「このまま続けるのは厳しい」と考えるメンバーが、何人か出てきたんですよ。何も言わなかったメンバーも、同じようなことを考えていたと思う。そんな状態でレコーディングを続けていたらある日、状況を察してスタジオに顔を出すようになっていた事務所の社長とレコード会社のスタッフが「中村さんたちにプロデュースをお願いするのはここまでにして、あとはメンバーだけで、一致団結してやったらどうか」と。そこから仕切り直して作ったのが、『大きくなったら』と『ノンストップで行くぜ!』の2曲です。あのブレーキは僕らにとって大きかったですね。ただ中村さんたちには本当に申し訳ないことをしたと思っています。FLYING KIDSのことを一生懸命考えてやってくれていたのは確かなので。
――そんなことが起きていたとは・・。楽曲からは微塵も感じられなかったです。
苦しかったからこそ楽しいものを作りたかったということでしょうね、きっと。そうだ! そういえばビクターの青山スタジオで作業をしていた時に、「ちょっとトイレに行ってきます」とスタジオを出て、トイレの個室で泣きそうになったことがありました(苦笑)。絞り出すように歌詞や曲を書いていた時期で、その上メンバーからは「辞めたい」と言われ・・。「アルバムはどんどん完成に近づいているのに、なんでこんなに辛くて悲しいんだろう」と。
( 1990年7月のNIKKEI ENTERTAINMENTの記事から )
インタビュー : 木村由理江