80.忍び寄っていた契約終了の危機、そして移籍
――“天国まであと3歩”の三部作が完成した1992年末、この年3本目のツアー“「天国まであと3歩」vol.3-強引 MY WAY”が開催されています。
『レモネード』のレコーディングでバンド内の空気が重くなっていたと話しましたけど、ツアーには一致団結して臨んでいたと思います。ミニアルバムとはいえ1年に3枚作り、ツアーも3本目ですからね。ライブバンドとしてはかなり逞しくなっていたはずで、各地、ものすごい盛り上がりでした。とくに最終日の渋谷公会堂の盛り上がりは凄まじかった。アンコールを求める拍手は鳴り止まず、お客さんも帰らないという(笑)。それを観ていた、ビクターの新レーベル・スピードスターのディレクターとスタッフが「これはすごい、うちでやりたい」と手を挙げてくれまして。それで移籍が決まるわけですが、実はその時点でデビューからずっとお世話になっていたビクターの第三制作室とFLYING KIDSの契約終了は決まっていたんですよ。
――えっ。そのことを知った上でツアーを?
いや、その辺は事務所に任せていましたから。ただ僕は不穏な空気を感じてはいました。シングル『君とサザンとポートレート』が話題になって売り上げも上向いていたし、ブームは去ったけど熱狂的なファンの人たちは変わらず応援してくれていたし、三部作で次から次へと新しい展開を見せるFLYING KIDSをおもしろがって応援してくれる音楽業界の人たちも多かったから、「俺たちがもっとパワフルにFLYING KIDSを売っていくぞ」とスピードスターのスタッフは考えてくれたんだと思います。
――移籍が決まってホッとしたのではないですか。
安心感はありました。ただ三部作とそれに続くツアーで自分たちが目指しているものにしっかりチャレンジできている自信がありましたから、そんなに謙虚な態度じゃなかったかもしれない(苦笑)。割と淡々と・・。今、思い出しましたけど、安心感の一方、「イカ天」に出たFLYING KIDSに最初に声をかけてくれて、プライベートでも親しかったディレクターの大友さんや上司の田村さんともう仕事ができなくなることへの寂しさも大きくて、責任の一端は自分たちにあるのに「どうしてこんなことになっちゃったんだろう・・」と感情をうまく処理できませんでしたね。それで新しい担当ディレクターの安藤広一さんに、最初はとても不機嫌な態度をとってました。ビクターに出入りするようになった1989年から顔は知っていたし挨拶もしてたのに、その時は違和感しかなくて。そしたらある日、エレベーターで一緒になった安藤さんが「浜ちゃんって俺のこと嫌いなの?」といきなり。「嫌いじゃないですけど、状況がまだよく飲み込めてなくて」と答えたのかな。あまりにストレートだったから「おもしろいな、この人」と興味が湧きました。そこからでしたね、距離が縮まっていったのは。
( ファンクラブの会報に掲載されたデビュー当時のFLYING KIDS )
インタビュー : 木村由理江