75.『君とサザンとポートレート』はメンバーだけでは作れなかった
――三部作最後の『レモネード』には当時米米CLUBを手がけていた、サックスプレイヤーの中村哲(さとし)さんをプロデューサーに迎えています。どんな経緯だったのでしょう。
「“聴かせる”をテーマに作るアルバムではFLYING KIDS流のポップスを追求しよう」ということになったんですが、自分たちだけではちょっと難しい気がしたんですよね。前2作を全力で作り上げて、正直、僕はもうヘトヘトでしたから。そこでスタッフから「本格的にプロデューサーを立てるのがいいんじゃないか」という提案があり、そこで中村さんの名前も出たはずです。米米クラブの『Shake Hip!』や『君がいるだけで』を聴いてましたから、僕も「お願いするなら中村さんかな」と思ってました。それまでにない大胆で新しいものを作れるんじゃないか、ノウハウだとか考え方を吸収できるんじゃないかと期待もしていました。メンバーからもとくに異論はなかったですね。あの頃の僕は、FLYING KIDSをさらに前に進めなきゃいけないという想いが、とにかく強かったんですよ。
――制作が始まって、どうでした?
スタイルがガラッと変わりました。曲が決まると最初に中村さんとマニピュレーターの迫田至さんが二人でプリプロをしてアレンジの骨組みを作り、それをもとにあとからメンバーが生の楽器に差し替えていくという流れになった。プリプロにはみんな立ち会ってはいましたけど、他の人のプリプロを見るのは初めてだったから緊張感があったし、打ち込みでどんどん進んでいく作業に圧倒されたようなところもあって、フランクに思ったことを言葉にするというより、作業をただ見ているだに近い状況でした。僕は多少やりとりしてましたけどね。
――第3弾の『レモネード』に先駆けて発売された『君とサザンとポートレート』が、新しい布陣で制作した最初の曲と考えていいですか。
おそらく。僕の家に来たディレクターの田村さんとサザンオールスターズの話になって、「サザンをモチーフにした歌を作ってみたらどうですか」と言われたのが始まりでした。レコード会社の先輩でもあるサザンはもちろん好きでしたから、おもしろそうだな、と。代表曲の『いとしのエリー』(1979年)を、オーティス・レディングの曲のような“往年の名曲”としてとらえた青春の歌を作るなんて新しいし、ダニー・ハサウェイやスティーヴィー・ワンダーみたいな匂いがするソウルミュージックに乗せてサザンを歌おうなんて誰も考えないだろうなと思ったし。あとで「サザンを歌にしてくれてありがとね」と、桑田(佳祐)さんに言われて嬉しかったですね。
この曲の中村さんチームのアレンジは本当に見事ですね。曲が持つ切なさや甘酸っぱさが余すところなく表現されているし、ポップスでありながらファンクやソウルといった黒人音楽の要素がグルーヴにうまく組み込まれている。FLYING KIDSのメンバーだけではとても作れなかったと思います。ある意味、この曲は中村哲さんたちとFLYING KIDSが、とくに“僕が”ということになるんでしょうけど、噛み合った1曲であり、アルバム『レモネード』でFLYING KIDSが辿り着けた到達点のひとつだったと思います。小沢健二くんに「ニューソウルでかっこいいなー」と言われて、嬉しかったことを思い出しました。
ただ歌いきれてない部分があるんですよねー。リズム感とかピッチとか。それがその時の自分の実力だったんでしょうね。絶対的な完成形ではないけれど、そのたどたどしさが味になっているところが、一つの収穫だった気がします(苦笑)。
(1992年、ロッキングオン・ジャパン用に撮影されたもの。カメラマンは小暮徹さん。)
インタビュー : 木村由理江