65.“FLYING KIDSの再スタート”という想いもあった三部作

――3枚目のアルバム『欲望は青春のカタマリだ!』(1991年10月21日)発売の翌年、3月20日から“SPECIAL CLUB NIGHT’92「夜は僕らを待っている」”ツアーが始まります。渋谷ON AIR 2days、大阪クラブクアトロ、名古屋クラブクアトロの全4本です。

 アルバム発売と同時期だった全国ツアー(「君だけに愛を 1991」全7本)では空席が少し目につくようになっていて、ブームによって客席が埋まっていた時期は終わったと実感したんですよね。それで自分たちの力でもう一度、ライブハウスからやり直していこうと気持ちを切り替えて臨んだツアーでした。『1日の終わり』のアコースティックヴァージョンを収録したカセットを会場で配ったのも、このツアーだったはず。渋谷ON AIRの2日目(3/21)のライブ中に丸山さんがぎっくり腰になるというアクシデントもありました。

FLYING KIDSは最初から制作担当は歌謡曲寄りの小泉今日子さんやアン・ルイスさんと同じ部署で、宣伝担当は国内のポップスやロックを扱っていた“インビテーションレーベル”だったんですよ。制作と宣伝は部署の垣根を超えて連携をとるように、ということだったんでしょうね。僕はライブハウスからやり直そうという変化を「FLYING KIDSの再スタートだ」と感じていましたから、よりスムーズな連携のためには制作と宣伝のスタッフだけでなく外部のクリエイターを交えたプロジェクトチームを立ち上げるのがいいんじゃないかと思いまして。スタッフも賛成してくれたので、友達のCMプランナーでコピーライターの徳井寛さんとイラストレーターのEd TSUWAKIくんに声をかけたんですよ。で、最初に僕が提案したのはFLYING KIDSのマークを作ろう、ということでした。企業イメージに関わる広告会社に勤めてましたから、企業と同じようにバンドにもわかりやすいマークがあった方がいいだろう、と。それでEdくんが作ってくれたのが“F”と“★”を組み合わせたあのマークです。徳井さんは三部作を貫く「天国まであと3歩」というコピーを考えてくれた。三部作のヴィジュアルと宣伝はすべてそのチームです。僕が制作だけでなく宣伝やヴィジュアル全般にまで入り込んで行くようになったのは、ここからでしたね。

――三部作は誰のアイディアだったんですか。

 ディレクターの田村さんです。「“歌う”、“踊る”、“聴かせる”というテーマ順にミニアルバムを作って3カ月おきにリリースし、それを三部作とするのはどうだろう」と。音楽的な成長に必要なステップを僕らに踏ませることと起爆剤になる作品を作ること、その両方を満たすための方法として、田村さんが考えてくれたんだと思います。制作、プロモーション、ツアーを短い期間に3回繰り返せば、状況を打ち破るような展開が開けてくるんじゃないかという想いで始まった「天国まであと3歩」シリーズでした。

――ミニアルバムとはいえ1年に3枚作り、3回のツアーをやる。ハードなスケジュールを前に、不安めいたものを感じたりは?

ミニアルバムですから収録するのは6曲か7曲。歌詞はすべて僕が書いてましたけど、曲はメンバーが1曲ずつ書けばほぼ数は揃う。しかも当時の僕は“第二期創作モード”みたいなのが発動していてどんどん曲が書ける時期だったので、「そんなの楽勝だ」と思ってました。いかに甘い考えだったか、すぐに思い知ることになるんですけどね(苦笑)。

(当時Ed TSUWAKIさんがデザインしてくれたF★バンダナ。)


インタビュー : 木村由理江