世直し対談
ゲスト
表1
『母さん、ぼくは生きてます』
アリ・ジャン著
池田香代子監修
●収録の絵=アフガニスタン難民の子どもたち
●写真=長倉洋海
●特別寄稿=島田紳助
●四六判、144P、一部カラー
●発売日:2004年1月22日
●定価:1100円(税別)
●内容:アフガニスタン人アリ・ジャンの、タリバンの迫害から逃れるための亡命経 過、日本での苦しい収容所生活、そして仮釈放されて今日までのことを綴った、あま りに早過ぎる「自叙伝」

【担当編集者より】

 本書は、2001年8月にアフガニスタンからナリタへ、未来への希望をバッグに詰め て来日したアリ・ジャンさんの手記です。空港から一歩も出ることなくいきなり「牢 屋」送りになってしまった彼の絶望と、仮釈放から今日までの希望を語った作品です。

 いろいろな方から応援や励ましを受けて、彼はいま元気に墨田区の夜間中学へ通っ てます。浜崎さんにも食事会を開いていただいたり、直接励ましていただいたりして、 アリは浜崎さんが大好きな兄貴のように思っています。

 アフガニスタンや難民問題にまったく興味のない人にぜひ、読んで欲しい本として 編集しました。どうかよろしくお願いします。

アリジャン応援ウェブサイト
http://www.alijane.org/


改行RETURN
《ソンナンデ委員会》
今回はアフガニスタン難民のアリジャン(アリー)さんをお迎えしました。


浜崎:俺がアリジャンに最初に会ったは確か今年の六月だよね。国連大使でもある歌人の田中章義さんが、『ぜひ会わせたい人がいる』っていうので、『じゃあ、みんなで飯を食うか』って言って。中目黒、でしたね。
アリー:そうです。
浜崎:そのあとは九月にアリジャンが開いたパーティの時だ。その間に電話で何回か、話しましたね。
アリー:電話で三回くらい、話したかな。
浜崎:会った時には飯食ったり酒飲んだりでざわざわしてていろんな話が交錯したんで、今日はあらためて、話を聞こうと思って。
アリー:はい。
浜崎:ちなみに、何年生まれですか?
アリー:1982年の12月です。
浜崎:もうすぐ21歳なんですね。日本に来たのはいつだったんでしたっけ?
アリー:2001年の8月1日。
浜崎:18歳だったんだ。それはまだタリバンがアフガニスタンを支配してたころですね。どういう経緯で日本に来ることになったのか、というところから教えてください。
アリー:僕のお父さんはロシアから物を買ってそれをアフガニスタンで売る仕事をしていたんですよ。
浜崎:いわゆる、輸入業、ですね。
アリー:そうです。で、僕が9歳の時にカブールでゲストお店を開くために、アフガニスタンの北の州にある村からカブールに引っ越したんです。アフガニスタンにはいろんな民族がいて民族間の戦争がずっと続いていたんですが、タリバンがアフガニスタンを支配するようになったある日、タリバンが家にきて、お父さんを捕まえていってしまったんです。その時に僕はたまたま買い物に出てて家にいなかったんですが、家に帰ろうとしたら近所のおじさんが、『帰らないほうがいい』って教えてくれて。すぐ上のお兄さんは行方がわからなくなっていたし、一番上のお兄さんはタリバンに逮捕されないようにとアフガニスタンとイランの国境にある、ヘラートという街に逃げていたんです。今度タリバンが来たら、僕が捕まってしまう。それでそのあと親戚の家に、逃げたんです。
浜崎:タリバンがお父さんを捕まえた理由はなんなんですか?
アリー:民族と宗教の問題です。アフガニスタンは主にアーリア系の、パシュトゥン、タジク、ウズベク、ハザラの四つの民族からなっているんですが、僕らはハザラ人というモンゴル系の民族で、同じイスラム教でもちょっと宗派が違うんですね。あと、ペルシャ系の他の民族と違って顔も違う。だから昔からずっと、ハザラ人は他の民族に殺されたり、捕まえられたりしてたんです。 浜崎:迫害されてたわけね。
アリー:ずっと前から。でもタリバンがアフガニスタンを支配していく時、それが一番ひどかった。ハザラ人がたくさん住む村で何百人もの家族を殺したりしたし、マザリシャリフという街でタリバンは一万人くらいの人を殺したんですが、その中で一番多かったのはハザラ人だった。タリバンの兵士がいきなり家にやってきてお金を出させたりすることもあって。それに怒ったすぐ上のお兄さんは、家族を守るためにハザラ人で結成された、アンチタリバンの軍隊の兵士になったんです。
浜崎:治安が悪かったから、自警団、みたいなものがあったんだ。
村田:自警団、と言うより、本当に軍隊、みたいなもののようです。
浜崎:そうなんだ。ある種の反体制組織、ですよね。結構危険なことをやってたわけですね。
アリー:そう。お兄さんがそこに入った少しあとに、タリバンがアフガニスタン全域を制圧して、タリバンがカブールに入ってきたんですよ。そしてアンチタリバンの人たちを捕まえ始めたんです。それですぐ上のお兄さんは、ヘラートに逃げたんです。
浜崎:親戚のうちにいったあとに、どうなったんですか?
アリー:あとでそこにやってきたお母さんといろいろ話して、僕はパキスタンに行くことにしたんです。
浜崎:お金をもらって一人で?パキスタンへの移動はどうしたんですか?
アリー:イドウ?
浜崎:車?バス?それとも歩きですか?
アリー:バスみたいなタクシーです。ゲストカブールからパキスタンとの国境の街まで五時間くらいかかるんですが、バスやタクシーは毎日行き来していて。その国境からパキスタンに入る時は、パスポートはありませんでした。でもタリバンが支配していた時にはもうパスポートは要らなかったんです。パスポートがなくても毎日、何度も行き来してて。国境の検問所にいる警察にはパキスタンのお金で200ルピーとか300ルピー渡すとパキスタンに入れるんです。そして僕は国境近くのペシャワールという街に着いたんです。
浜崎:そこには親戚、みたいな人がいるの?
アリー:親戚もいたけど、僕はアフガニスタンから逃げて来たハザラ人が集まるホテルに泊まってました。そこは値段も安かったし。そこには六ヶ月くらいいました。もしアフガニスタンの状況が変わったら戻ろうと思って。でもだんだん悪くなるばかりで・・。タリバンの兵士がたくさんやってきて、パキスタンに住んでいるハザラ人を逮捕して、アフガニスタンへ送り返すようになったんです。
浜崎:そこから日本に来るんですね。日本を選んだ理由はなんなんですか?
アリー:世界で一番平和な国で、国民も親切だと聞いてたし、そこでならきっと思う存分勉強もできると思って。アフガニスタンでは僕が生まれる前からずっと内戦が続いていたから、ほとんど勉強ができなかった。日本製の機械や車もアフガニスタンにはたくさんあって、すごい国なんだと思ってたから、そんな日本にいって勉強できたら、いつか戦争が終わって帰って来た時に、きっとみんなの役に立てる、と思ったんです。
浜崎:なるほどね〜。パスポートなんかは、どうしたの?
アリー:パスポートだけじゃなくビザもなかったんです。それで親戚に紹介してもらったブローカーにお金を渡して全部用意してもらって、一緒に日本の成田に連れてきてもらうことになったんです。
浜崎:用意してくれたんだ。へ〜。
アリー:でも成田に着いたら入国審査を受ける前にそのブローカーがパスポートをもったままいなくなってしまって。そのうちに空港の警備員に捕まって入国審査官のところに連れていかれたんです。それが2001年8月1日。それから一週間くらい成田空港の不法入国者や不法滞在者が入れられる、ベッドだけの小さな個室に入れられて。毎日、朝から夜まで同じような質問を何度もされたんです。
浜崎:その時は日本語なんて、全然しゃべれませんでしたよね。
アリー:全然。
浜崎:アフガニスタンは何語ですか?
アリー:ダリー語です。
浜崎:成田空港にはダリー語をしゃべれる人が誰か、いるんですね。
アリー:います。最初の夜にちょっと質問された時は英語でした。次の日はアフガニスタン人の通訳さんが・・・。でも彼女は小さい時に日本にきて21年くらい日本にいるから、ダリー語はほとんど忘れてて(笑)。
浜崎:(笑)。なかなかコミュニケーションがうまくいかなかったんですね。
アリー:そうそう。
浜崎:で、そのあとにまた別の収容所、みたいなところに移されるんですよね。
アリー:そこから茨城の牛久にある『東日本入国管理センター』というところに連れていかれたんです。
浜崎:そこでは毎日、何をして過ごしてたんですか。
アリー:大きな部屋に十人くらい入ってたんですが、テレビもあったから週に二、三回映画も観れたし、シャワーを浴びたり、洗濯もできるんです。卓球もやりましたよ。あと週二回くらい、外でスポーツもやりました。
浜崎:そこに来た人は、基本的には無理矢理帰される運命にあるんですか?
アリー:う〜ん・・・。
村田:中には渋谷の街角で偽造テレフォンカード売ってるような人で、『捕まっちゃったからもう帰るか』っていう人もいるし、すごくいろんな人が混じってるみたいです。でも長期滞在してる人の中には、なんとか日本にいたいと難民申請してる人たちも多いですね。他にも日本人と結婚していて、家族と一緒に日本で暮らしたいと思っている人とか、いろんな人がいるんですよ。
浜崎:難民申請、というのは、結構下りるもんなんですか?
村田:いや、ほとんど下りないです。
浜崎:申請が認められなかった場合、最終的に強制送還、みたいなことになるんですか?
村田:そうですね。
アリー:・・・。
浜崎:牛久に移ってからは、どうなっていくんでしたっけ?
アリー:成田で最初に難民申請の書類を書いて、9月26日にそれが認められないことがわかって、もう一回申請の書類を書いたんですけど、やっぱりそれも認められないっていうことが12月にわかって・・。政治難民は認められないって言われたんですよ。
浜崎:申請は却下されちゃったんだ。そこから田中さんにつながっていく流れは?
アリー:日本に来てからずっと、僕のような人間が牛久にいることを誰も知らなかったんです。でも9月11日にNYで事件があったあとに、その前から日本にいたアフガニスタン人が入管に逮捕されて、牛久の僕と同じ部屋にきたんです。彼らに面会に来た人たちが、僕のことも知るようになったんです。
村田:テロが起きたあとに、日本にいる約10人のアフガニスタン人が摘発されたんですね、アルカイダじゃないか、と疑惑をもたれて。
浜崎:アリジャンはタリバンから逃げてきたのになんでこんなところにいるんだ、みたいな話ですね。大分わかってきたぞ(笑)。そのあとに牛久の収容所から出ていけることになるわけですよね。それはどういう経緯で?何かが許されたから出ていけたのかなって思っちゃうんですけど。
アリー:・・。(助けを求めるように村田さんを見る)
浜崎:説明が難しいんだね。その辺は村田さんに解説してもらうといいのかな。
村田:わかりました(笑)。退去強制令書が発付された場合、三ヵ月以内に『決定に異議があるので、こういう内容で裁判をしたい』という書類を裁判所に提出しなければいけないんですがアリジャンはそれを知らなかったし、教えてくれる人もいなかったからそのままにしてたんです。そのうちに西中さんというフリージャーナリストの方がアリジャンに会って、そこからアリジャンと同じ部屋にいたアフガニスタン人を支援している弁護士の方にアリジャンの存在が伝わって。それが申請の期限の二日前くらいだったんですよ。
浜崎:ギリギリですね。
村田:そうなんです。百科事典二冊分くらいの資料を作らなければいけないから、アフガニスタン難民弁護団の中で「ちょっときびしいんじゃないか」という話も出たそうですけど、児玉先生、という弁護士の方が「私がやります」と名乗り出られて。寝ずの作業で資料を作り上げて、申請をしたんですね。
浜崎:へ〜。
村田:そのあとに『係争中は拘禁されないようにする』という申請も出していて、それが裁判所で認められて、2002年3月に外に出ることができたんです。
浜崎:外に出てからは、生活費なんかはどうしたんですか?
アリー:最初の一ヶ月は田無にあるカトリック教会に住んでました。その間の生活の資金は難民支援協会というNGOからもらってました。そのあとは何人かのアフガニスタン人と一緒に墨田区に住んでいます。
浜崎:アパートとかを借りて? 貸してくれるんですね。
アリー:貸してくれてるのかな・・・。
村田:墨田区は外国人労働者が多くて、家主さんも比較的オープンといいますか。過去にも外国人が入っていたけど別に悪さをするわけじゃないから入っていいよみたいな雰囲気はありますね。
浜崎:へ〜。ちょっと失礼かもしれないけど、おもしろいですね。ゆる〜いところも、いっぱいあるんですね。
浜崎:そしてカラオケ屋で掃除のアルバイトをしながら生活費を稼いでる、と。
アリー:そうです。今日もそこから来ました(この対談はお昼の12時からでした)。
浜崎:お疲れさま(笑)。いまだに難民申請は受理されず、今も格闘中なんですよね。
アリー:そうです。裁判所がだめといって、去年の夏に一度、収容されそうになった時があって。アフガニスタン人や支援してくれている人や弁護士の人たちと一緒に入管に出頭したんですが、弁護士の方たちが入管の人たちといろいろ話をしてくれて、『仮放免にします』っていう許可を出してくれて。牛久を出た時にはなんの許可もなかったけど、そこで初めて、そういうのをもらったんです。
村田:収容停止の裁判と申請の却下取り消しの裁判という二つの裁判をやっていたんです。今、アリジャンが話していたのは、収容停止の方です。地方裁判所で勝ったから一回外に出れたんですけど、二審の高等裁判所で、それがひっくり返ってしまって、収容しなければいけない、と言う判決が出たんです。でもアリジャンが通っている学校の先生や政治家の方とかがいろいろ働きかけてくれて・・・。裁判自体は負けたんですけど、入管が彼らを収容しない、と決めたんです。
浜崎:そんなことが許されるんですか?
村田:裁判と法務省の判断が別、ということになったんですね。
浜崎:裁判より法務省のほうが勝っちゃったわけですね。すごいな〜(笑)。
村田:裁判では収容をすることが違法ではないといっただけで、本当に収容するかどうかの最終的な決定をするのは法務省で・・・。その最終決定者が収容しない、と言ってくれたんです。
浜崎:いろんなことが考慮されたわけですね。でもまだ難民とは認められていない・・・。
アリー:次は来年の2月20日に、裁判所に行って僕がまた話をする予定です。そのあと裁判所の人がいろいろ決めて、その決定が出るのは早くても4月か5月になると思うんですけど・・・。
浜崎:裁判のことも気になるけど、家族の消息がわからない、という問題もありますよね。お母さんとお姉さんたちが向こうに残ってるんですよね。
アリー:別れた時は時はカブールにいたけど、今はどこにいるかわからない。
浜崎:今、日本とアフガニスタンの関係ってどうなってるんですか。行けるんですか?
村田:行けることは行けると思うんですけど、最近またどんどん治安が悪くなっていて。UNHCR(難民高等弁務官事務所)も帰って来たりしてるんですよ。
浜崎:そうか〜。
村田:僕が働いているJICAの事務所がアフガニスタンにありまして、そこの所員の松浦さんという女性に協力していただいて、アリジャンの家族を探してもらったら、ある人が、お母さんはイランにいる、と教えてくれたらしいんですよ。でもそれがどこまで事実なのかは確認できてなくて。
アリー:裁判が大丈夫だったら、日本から出られるし、自分で探しに行けるんです。自分で探したら、絶対に見つかると思うんです。
浜崎:・・・。アリジャンに関する詳しいことは、1月22日にマガジンハウスから今度出るアリジャンの本「自由をもとめて」に書いてあるんで、そちらを読んでもらうとして・・。最後にふたつ訊きたいんです。ひとつは、難民受け入れについての日本の対応についてどういう感想を持っているか、ということです。アリジャンの立場からは見えずらいところもあると思うので、ぜひ村田さんにも答えて欲しいんですけど。
アリー:・・・。ちょっと通訳してください。
村田:(質問を英訳して伝える)
アリー:ああ・・。難民申請をしたのは日本が初めてなので、他の国がどういう状況かわからないけど・・・。でもある雑誌に、日本と同じくらいの面積のイギリスやドイツでは、2001年だけで2万人以上の難民を受け入れたと書いてあったんです。アメリカは広いからもっと多いですよね。でも日本は14人くらいしか受け入れてない。
浜崎:14人! ひどいな。それはちょっと少なすぎるよな。そこまで拒否する理由が、何かあるんでしょうかね。なんか特別な理由でもあるのかなって、勘ぐりたくなるけど、それも良くわからないですもんね。
村田:ええ・・・。実は私もこの3月にアリジャンと会うまでは、難民受け入れの状況についてあまり知らなかったんですけど、知れば知るほど不透明だなと感じます。法務大臣からの『難民の申請を却下します』っていう文書があるんですけど、『却下します』だけで、どういう理由なのか、とか、一切書かれてないんですね。誰でも申請した人を受け入れてください、とは思わないけれど、どういう人が受け入れられるのかという基準やどうして認められなかったのか、という理由が明確になればいいのかな、とは思います。
浜崎:確かにそれじゃあ『難民』ということに対する国としての基本姿勢が良くわからないですよね。アリジャンのような人たちを受け入れる意識を、どういうふうに持ったらいいのかをまだ、みんな、わかってないんだと思うんですよね。だって海外からの人たちを受け入れる、というのは歴史的にもかなり経験のない国だと思うし。移民の国、といわれるアメリカなんかと較べたらもう全然違うんだろうなあ・・。いろんなことがクリアになったら、どういうふうにしたいですか?
アリー:日本にいれることが決まったら、中学を卒業して、高校もいって、そのあと大学にも入りたいです。大学を卒業するまではすごく時間がかかるけど、そのあと、アフガニスタンがもし平和になっていたら、アフガニスタンの国民のために自分ができることを何かしたいと思っています。
ゲスト 浜崎:それはすごく素敵なことですよね。僕らがアリジャンのためにできることは、ほとんどなにもないけど、幸運を祈ってます。申請、認められるといいなあ・・・。忙しいのに、今日はどうもありがとうございました。
アリー:こちらこそ(笑)。


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